伊豆で暮らす母が、2〜3日我が家に遊びに来ていました。
 
わたしが今の家に引っ越してきて一年が経ちましたが、今の家は母が寝るスペースくらいなら確保出来るので、2〜3ヶ月のペースで数日我が家に泊まりにきます。
 
息子はもうすぐ20歳ですが、ばあちゃん大好きなのでなんだかんだ嬉しそうだし、お小遣いもたくさんもらってます。いいなあ。笑
 
 
 
「陽気が暖かくなったら、また伊豆にもおいでー」と言いながら帰っていきました。
 
 
 
 
 
 
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この感覚。
 
母が「そろそろ行くよ」と帰り支度を始めるくらいから、母が帰った後もしばらく残る、この感じ。
 
 
 
 
なんだろう。
 
 
 
 
 
 
 
寂しいのか?
 
確かにそれはあるけど、でも、なんか、それだけじゃない気がする。
 
 
 
 
 
 
 
なんだろう、これ。
 
 
母が「じゃあね」と家の扉を閉めるたびに出てくる、この感じ。
 
 
 
 
 
 
しばらくの間、茶碗洗ったり洗濯物ひっくり返したりしながら、この感じがなんなのかをじっくり味わっていました。
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
あ、、、
 
 
 
 
 
 
 
 
出てきたのは、31年前のシーン。
骨肉腫を患い抗がん剤治療をしていた時のわたしでした。
 
 
 
 
 
3〜4週間に一度のペースで抗がん剤治療治療が行われる。
私が入院していた千葉の病院に母が看病に来てくれるのは、その抗がん剤治療時の3〜4日間。
 
まだ幼稚園に通っている弟を、そして、母が留守の間家のことをやってくれる中学生の妹を、沼津に置いて千葉まで看病に来るわけだから、3〜4日が限界なことはわかっていた。
 
 
父は、家事ができないから出来るようにすることはしない、何もしない人でした。家事ができないから出来るようにする人は本当にすごいよね。
こうやって話が脱線していくので、これはここまで。笑
 
 
 
 
 
 
抗がん剤投与が終わり、それから数日は熱やら吐き気やらとの戦いが続くのだが、わたしがいくら熱が高くても、吐き気が治らずゲーゲーやっていても、母は沼津に帰らないといけない。
 
母がいなくても、病棟には看護婦さんもいるし、同じ病室のみんなのママたちもいるし、お願いしたいことをお願いできる人は近くにいるわけだから、なんとでもなることはわかってる。
 
 
 
 
 
 
でも。
 
 
 
 
 
 
お母さんに傍にいてほしい。
だから、沼津に帰らないで。
 
 
 
 
 

当時15歳のわたしは、ただ、お母さんに傍にいて欲しかったんです。

 
 
 
 
 
今なら、母が後ろ髪引かれる思いで病院を後にしていただろうと安易に想像できますが、
 
 
 
 
どうせ弟のほうが、妹のほうが、お母さんは大事なんでしょ!
 
わたしが死んじゃえば看病しなくて楽なのにって思ってるんでしょ!

 
 
 
なんて、あの頃のわたしはそう思うしか出来なかったんです。
 

 
 
 

 
 

んなわけないのにね。
 
代われるものなら代わりたい、と。
いっそのこと、この胸が張り裂けてくれたらどれだけ楽になれるか。
そう思うのが親なのにね。
 
 
 
 
ほら、子供って勝手じゃん?
 
自分のことなんてちっとも見てもらえてないって思い込んじゃったんだよね。
 
 
 
 
 
 
 
 

あの時の、胸に小さな穴が空いた感覚。
あの時の、言葉にならない一人ぼっちの感じ。
 
 
この『体感覚』。
 
 
 
31年経った今も、未だわたしの中に残っていた体感覚だということに気付くことができました。
  
気付くことが出来たからこそ、お母さんに傍にいて欲しかったあの時のわたしの望みを、今大人になったわたしがしっかり感じ受け止めます。
 
そして、
母が元気な今、もっと母と過ごす時間を作ろうと決めました。
 

 

 
 
 
 

31年前のわたしへ。
 
あの時、抗がん剤治療に耐えてくれて、本当にありがとう。
31年後のあなたは、大切に思える人がたくさん出来て、そして、あなたを大切に思ってくれる人に囲まれて、笑顔で過ごしてるよ。