「わかってほしい」。
例えば、
わたしが光GENJIが大好きだということをわかってほしいのか。
わたしが光GENJIのどこがどう大好きでそれに共感してほしいのか。
…この例え話をしようと思うと、必ず光GENJIが題材になる…笑
みんながよく言う「わかってほしい」って、前者後者どっちなんだろう
と、この頃とても思うのです。
わかってほしい んじゃなくて、
辛かった苦しかった怖かった虚しかった切なかった嬉しかった話を聞いて欲しいんじゃないのかな。
辛かった苦しかった怖かった虚しかった切なかった嬉しかったと思ったことを知って欲しいんじゃないのかな。
なぜなら、
わたしがどんなふうに辛かった苦しかった怖かった虚しかった切なかった嬉しかったかは、わたしにしかわからないから。
みんな、感じる目盛り幅が違うもの。
がんで例えるとわかりやすいんだけど。
わたしは骨肉腫で治療を受けたけれど、
同じ骨肉腫でもがん細胞がある部位によって手術の時間や傷の長さが違うし、
レントゲンの撮り方だって違うし、
痛みに耐えられる強さ弱さあるし、
吐き気に耐えられる強さ弱さあるし、
薬が効きやすい効きにくいもあるし、
入院期間だって違うし、
自分が何が辛かった苦しかった怖かった虚しかった切なかった嬉しかったかは、自分しかわからないし自分だけがわかっていればよくて、
辛かった苦しかった怖かった虚しかった切なかった嬉しかったという経験をしたことを周りに聞いてもらう知ってもらうのでは、物足りないのかな??
悪阻だってそうだよね。
その人によって症状が違う。
重い軽いもあるけれど、吐き気に割と耐えられる人とそうじゃない人で辛さには差があるわけで。
★ ☆ ★
確かに、経験があるから想像はできる。
想像できるから「わかるよ」という言葉を使うんだけど。
想像はできるから、想像しかできないから、
だからこそ、
辛かった苦しかった怖かった虚しかった切なかった嬉しかったことを聞きたいし知りたいから、話してくれるならわたしで良ければ遠慮なく話してね
ってことなんだとわたしは思うんですよ。
言葉を辿ると屁理屈にも思えるけれど、でも、そういうことだとわたしは思います。
だから、という言い方は変だけど、
「がんになった人にしかこの苦しみはわからないよね」
って、そんなの当たり前の話で。
それを経験のない人に「わかってもらう」のは無理なことで。
どうして「わからせよう」とするんだろう。
「わかってもらいたい」とか
「わかってもらえない」とか
それ自体にわたしは違和感を覚えます。
辛かった苦しかった怖かった虚しかった切なかった自分を、もっともっと自分で労ってあげてほしいんです。
嬉しかった自分を、もっともっと自分で喜んであげてほしいんです。
自分への労いが足りないから
自分と喜び合っていないから
周りの人に求めてしまうんです。
それらって、他人に求めることじゃなくて、
自分で自分にしてあげられること、自分にしか出来ないこと、だとわたしは思うんですね。
わたしは、わたしのことを彼に知ってほしいし話を聞いてほしいと思っているので、普段からたくさんたくさん話をします。
だから彼は、わたしのことを知ってくれています。
「わかってほしい」は無理な話だから、そこは求めていません。
いくらラブラブでも(笑)、無理なものは無理だもん。
ただ 、
わたしが経験した辛かった苦しかった怖かった虚しかった切なかった嬉しかったことに対して、彼に寄り添ってもらうことはできる。
だから、
これからもたくさんたくさん彼にはわたしの話を聞いてもらうし、わたしのことを知ってもらいます。
ええ、最後は惚気です。笑