はじめまして、朔日と申します。
閲覧いただきありがとうございます。
2017年7月現在で24歳、専業主婦をしている女です。
少し長くなりますが、私という人間がどういうもので、このブログを始めた意図は何か、というのをご説明します。

根底にあるものは、考え事を始めると止まらないことへの救済措置です。
なぜなぜを繰り返して理由づけをしていくのが、これは楽しくて心地よいものなんですが如何せん、考え事というのは体にとってはもの凄く負担らしいのです。
調べていたら、とある心理カウンセラーの方のサイトにたどり着きました。
思考中毒というものがあるみたいですね。
考え事をすることは脳内で快楽的な物質を出すそうで、それに魅了されて中毒になり止められなくなる、かいつまんで書くとこんなだったかな。
かなり腑に落ちてビックリしました。
だからこの「考え事が楽しい」というのも、中毒症状によるものなんでしょうね。
他に紹介されていたもので、正解中毒と自罰中毒も心当たりがありまくりです。これに関してはまた追い追い記事にしようかと思っていますが……。
幼い頃の家庭環境や教育が影響しているようです。うちはかなり恵まれた環境なので私の場合は自己責任では、と思うのですがね。
ただの中毒だったと知って、「哲学者向きなのかも〜!」とか浮かれてた自分が哀しい。

さて、そんな思考中毒に侵されながら、けれどまずこんな話はリアルでの人付き合いでは受け入れられませんよね。
私の考えている事柄は、いつも答えが出ないものです。だからなぜなぜを繰り返して自分なりに咀嚼して納得しながら拡げていく。
正しい答えなんて存在しないとさえ思っています。だからこそ自分なりの答えを見つけていく過程が楽しい。
だけど、それには他人の意見も必要ですよね。自分の中だけではただの偏見になってしまう。
だからと言って他人と進めていこうとすると大抵、終いには怒られます。
それは当然だと思ってます。
人はたぶん、わからない事柄を追求されるのは苦痛です。考えても仕方のないことだと感じるものを、深く掘り下げるのは無駄だし苦痛。その気持ちもわかりますよね。効率的というのか……正論だと思います。
私は結論を出したいのではなく、相手の考え方を聴きたい、知りたいだけなんですけど、それさえも理解を得られない。
なぜなら結論が無ければ人はそれに価値をつけられないから、ではないかと私は思っています。
だから考え方を聞かせたところで無意味だと判断しますよね。結論にはたどり着かないから。
結論だと提出しても、それに関してまた私からのなぜなぜが始まりますし。そうすると嫌悪感が増す。
考えても仕方のないことを話し合うことは生産性がない、みたいな感覚ですかね。そりゃそうです、それが普通のことです。
でも私にとっては、考えてわかることを話し合う方が生産性がないと感じてしまう。(ここでわかって欲しいのは、だからと言ってその感覚が無駄なことだとは決して思っていないこと。)
これは価値観のズレです。
ですが、これこそ本当に仕方のないことなので、そこを責めたところで交わることのない感覚だから、結果、そういう話はしない。
ただ私も人間ですから、共感は得られなくとも言葉を交わしたい。
傷つくし傷つけるだけとわかっていても、声を聞いてほしいと思ってしまう。それが辛いんですよね。
そんな心の咆哮を、咽喉を介さず逃がせられればと思い、ブログを始めました。

ここで書き記す内容は、当然のことながら偏見も含まれています。ほとんど偏見かもしれない。
完全な根拠は無いし、完璧に偏見でないことを証明するために調べ尽くしたりはしません。
あくまで一個人の意見と捉えていただきたい。
世間の代表面をしたり、これが大多数の意見だと主張するつもりは無い、ということはご理解いただければと思います。

長くなりましたが、恐らく終始こんな調子で綴っていくかと。体調の悪い時はもっと酷いかもしれない。
読むのはかなり疲れるかと思いますので、もし興味がおありでも無理せず休憩を取りながら、できればずっとお付き合いいただけたら幸いです。