ここ最近、メディアを賑わせている、現代のベートーヴェンこと、佐村河内氏の事件を見て思った。

美しさとはなんだろうか?

Hiroshimaと言う交響曲はクラシック界では異例の16万枚を売り上げるくらいだ、彼の全ろうと言うハンデから産み出された曲だから美しさを感じたということだけではないだろう。

曲そのものに美しさ、素晴らしさを感じたことだろう。

それは個々人の心のままに、だ。

彼を叩いているのはそのまま、彼の作ったドラマに感動した事に他ならないのではないだろうか。

騙された事が許せないと。

ゴーストライターの新垣氏が産み出した曲は単に素晴らしいものなのではないだろうか。

小林秀雄の言葉に、
『美しい「花」がある。「花」の美しさという様なものはない』と言うものがある。

ずっと意味がよくわからなかったが、ある時、
『花そのものが持っている美しさというものは無く、花を見る人に、その花が美しいと思う心がある。』
と言うものなのだと行き当たった。

今回の事件で廃盤にされてしまう曲たちにも同じ事が言えるだろう。

事実が明らかにされた今、その曲は再評価すべきなのではないだろうか。

もし仮に、再評価の結果、駄作というのであれば、評価していた人達の殆どが音楽そのものの美しさをわかっていないことになり、
背景のドラマにこそ価値を見出していた、見出していたいだけなのだろう。

そもそもゴーストライターなど実際、どの業界にもゴロゴロいるのに、真面目に告白したら鬼の首を取ったように非難するのはどうかと思う。

事実を明らかにするのはいい。
義憤にかられるのはわかる。
けれど、追い詰めてはいけない。
罪があるのならそれを償わせるのは人ではなく法なのだ。

騙されたことで怒って良いのは曲の良し悪しなど関係なく、ただ彼の人生に同情し、協力してきた人々だけではないだろうか。

片腕のバイオリニストの女の子はその1人だろう。

彼のために折った千羽鶴を見ると彼女にはこの事件は伝わらないで欲しいと切に願う。








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