村上春樹は読まないと決めていた。

なにせ、面白いのだから。
そして、それらを面白いと思ってしまう人の輪の中に入りたくはなかった。

むしろ、村上春樹はつまらない。
そんな意見が聞きたいくらいだ。

けれど、聞いたところで何も変わらないけれど。

よく、冒頭の一行の様なことをいうと、

どうして?ときかれる。

そこでいつも、

いつ読んでも面白いのが分かってるし、自分の読み込みでは彼の深部に辿り着かないから。

と、答えている。

けれど、読んだ。
やはり、面白かったし、
予想以上だった。

ちょっと調べてみると、
誰それは何々を象徴していてとか、なんとか書いてあるのを容易に見つけることができるが、そんな事はさっぱり気にもしなかった。

そこはかとなくシュールで、でも、ファンタジーではない。
抽象的、象徴的な印象のまま物語は終わる。

先がどうなるのか?と言うよりも、どういった場面が現れるのかと言う方が気になっていたような気がする。

続きと言うよりも、終わり方が気になる。
けれど、決して印象深い終わり方ではなかった。

常に、なんなんだ?この物語は?と問いかけながら読んでしまう。
色んな不可解がすんなりと収まってしまう世界と読者が作る世界がまるでリンクして行く様な感覚すらある。

読み物としても当然面白いからかそなのか、独特な世界観なのか、それとも、誰かが解釈している様に物語の持つ象徴性が読み手をその世界へとひきずりこんでいるのかもしれない。

他にこう言う感覚に近いものは?と考えたら、映画だった。

観終えた後にブルースリーになり切ったり、冷徹な殺し屋のように表情を固めてみたり、煙草の吸い方を真似してみたり…。

それは、漫画も、そうだろう。

が、なりきることと自分のままその世界に入り込んで行くのは話が違う。

なり切る事には、力がいる。
それは、そうしたいと言う意志だったり、時間だったり、お金だったり、
真似してみたり。

あくまでも、自分は自分だ。

つまり、旅なのではないだろうか?

小説だから物語はある。
それを俯瞰してみている自分がいる。
そして、いつのまにか、その世界での自分は俯瞰する事が、今、こうしてiPhoneの画面をみている事と変わらない行為に相当しているのではないだろうか?

つまり、旅とはものの見え方そのものの事なのではないだろうか?

文化の違う国へ行けば、目に付くものが変わり、言葉が変わり、匂いや雑踏が違っている。

そうした、わかりやすい相違が自分は旅をしていると自覚させるのだろう。

言葉もわかり、価値観もそれほど違わない、けれど、確かに私は旅をしていたと言える。

つまり、既に旅する手段を手に入れたと言って良いだろう。

それが、価値観が変わったとか大げさなものなのではなく、単に旅したい時は旅すればいいじゃんというとてもシンプルな法則に気づかせてくれたと言える。

総評すれば、この物語は自由な物語なのかもしれない。

じゃあ、また読む?と聞かれれば読まないと答えるだろう。笑。










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