浜田省吾の歌に、「君の名を呼ぶ」と言う一曲がある。

ふと好きな人の名前を呼びたくなる気持ち、恋しいとか会いたいとか切ないとかそんな瞬間瞬間を切り取ったスクラップブックのような歌だ。

シングルカットされているが、結構地味な部類に入るものではないだろうか。

勿論、ここに書くくらいだから私は好きだ。

人の呼び方と言うのは、ただ、名前を呼ぶだけでも数十種類あるのではないかと思っているし、あだ名とかを入れればそれこそ様々な感情を伝える事が出来ると思っている。

ここで音声にてそれらを表現すれば話は早いのだが、夜な夜な独身男性が女性の名前を、ランダムに選んだにしろ感情を込めて連呼している姿を想像すると寝つきが悪くなりそうなのでやめておくし、文字でも余り気持ちのいいものではないというか、むしろ気持ち悪いので控えておく。

なら、何を書くのかと言われれば首を傾げてしまうが、それでもまだ、書く事は尽きないらしい。

さて、話を戻す。

好きな人ができた時、呼ぶ名前を考える人と考えない人がいる。

私はどちらかというと考えないと言うほど考えなくはないが、気にしないようにしている。

そのまま、二人が知り合った時の余韻を残した呼び方が好ましい。

けれど、心の呼び名は付ける。
それは、たれめこちゃんだったり、悪巧みだったり、ぎぅちゃんだったり、こちらとしては120%の愛情を持って呼ぶにもかかわらず、それは声にしてはいけないと経験が囁く。

つまりは、呼ばれたい名前と呼びたい名前に深い断絶がある事になる。

この場合、呼ばれたい名前を優先することは言うまでもないし、呼びたい名前をごり押ししたいと言うわけでもない。呼びたい名前はあくまでも心で呼ば一先ずは落ち着く。



あなたの名前はあなたの名前である時点で既に魅力に溢れている。

そして、その実名は当然あなた自身であり、私が呼ぶ名前だ。

ただし、ここで一つの問題が浮かび上がる。

名は体を表すと言うものの、私の知るその人がもしも、その名から溢れていたらどうしたらいいのだろうか?

例えば、
こんなに愛しているの、愛しているじゃ伝えきれない、抱きしめても抱きしめたりない、と言った、ラブソングの定番とも言える心の動きにそれは等しい。

どれだけ名前を連呼しようとも、その気持ちは言葉になっていない。行間にすら収まっていない。
ただ、ひたすらに足りない。

その為に、考えてしまう事がある。

それは当然まれな出来事だが、そう言う事もある。

一人、声に出してみる。
語感や口馴染みの良い言葉を探してみる。
時には、ただ、静かに、唱えるようにあなたの名前を呼ぶ事もある。

そうして、落ち着いた心はストンと落ちて、ピタリとはまるように、馴染みのある言葉へと深化し、まるで、今までの逡巡が嘘のように、歴史を踏まえた上で当たり前の呼び方に落ち着く。

あなたの名前を呼ぶ時は喜怒哀楽の様々な感情を乗せてはいるものの、そう言ったまどろっこしい過程を経て、呼んでいる。

だからといって、心のあだ名が変わる事はない。
それが、たれめこちゃんだったり、悪巧みだったり、ぎぅちゃんだったり…。

けれど、せっかくつくった心のあだ名、声に出さないわけにはいかない。

その時、あなたの名前を呼ぶ時以上のプラスαの何かを感じとって頂ければ、私は更に言葉の力を信じる事が出来る。

呼び方を変えるのはこれからを変えると言う事に他ならない。

だからこそ、私は今日もあなたの名前を口ずさみ、心のあだ名を模索する。


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