この本を読んで思い出したのはとあるアトリエでの一月。
建築に携わるものの人間としての礼節を徹底的に叩き込み、字の如く命を削って建築と接して行く。
現代の寺子屋。
そこに立ち込める空気の密度の濃さはそのまま圧縮された時間の流れであり、その一月が終えた時、今までの私の一年分の経験を積んだと実感してしまった程です。
この本の冒頭は永平寺へと足を踏み入れるところから始まります。
本人の感慨を吐き捨てる様に荒波が著者を始めとする数人を飲み込んで行きます。
娑婆とは何もかもが違い、殴る蹴るに睡眠不足、少ない食事、精神的にも日に日に追い詰められて行く様は読んでいるこちらにも、
「禅」とはなんなのか?
「これが本当に道元が求めた姿なのか」?
と憤りすら感じる不当な扱いは目に余ります。
けれど、私の知っている禅の姿は上っ面でしかないし、読み進めていくと、何時の間にか著者の目を通して見えてくる風景に明らかな変化を読み取る事が出来ます。
一心不乱。
まさにこの言葉に尽きるのではないでしょうか。
一挙手一投足を常に見られている緊張感の中、落ち度があれば即呼び出され厳しい罰則を受け、それに慄きながらも、やらなくてはならない、出来ないということはそこには存在しない。
足を怪我していようが、体調が悪かろうがやらなくてはならない。
ストレスを発散する場もなく、どんどんと溜め込んで行くしかない。
けれど、そんな状況だからこそ、些細な事に喜びを見出す事ができる。
自分にこびりついた垢がごっそりと取れて行く開放感。
その部分を読むと、羨ましさすら感じる程清々しい。
正法眼蔵の難解さに負けそうな私にしてみれば、これ程わかりやすい入門書はない。
iPhoneからの投稿食う寝る坐る永平寺修行記 (新潮文庫)/野々村 馨

¥660
Amazon.co.jp
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現代の寺子屋。
そこに立ち込める空気の密度の濃さはそのまま圧縮された時間の流れであり、その一月が終えた時、今までの私の一年分の経験を積んだと実感してしまった程です。
この本の冒頭は永平寺へと足を踏み入れるところから始まります。
本人の感慨を吐き捨てる様に荒波が著者を始めとする数人を飲み込んで行きます。
娑婆とは何もかもが違い、殴る蹴るに睡眠不足、少ない食事、精神的にも日に日に追い詰められて行く様は読んでいるこちらにも、
「禅」とはなんなのか?
「これが本当に道元が求めた姿なのか」?
と憤りすら感じる不当な扱いは目に余ります。
けれど、私の知っている禅の姿は上っ面でしかないし、読み進めていくと、何時の間にか著者の目を通して見えてくる風景に明らかな変化を読み取る事が出来ます。
一心不乱。
まさにこの言葉に尽きるのではないでしょうか。
一挙手一投足を常に見られている緊張感の中、落ち度があれば即呼び出され厳しい罰則を受け、それに慄きながらも、やらなくてはならない、出来ないということはそこには存在しない。
足を怪我していようが、体調が悪かろうがやらなくてはならない。
ストレスを発散する場もなく、どんどんと溜め込んで行くしかない。
けれど、そんな状況だからこそ、些細な事に喜びを見出す事ができる。
自分にこびりついた垢がごっそりと取れて行く開放感。
その部分を読むと、羨ましさすら感じる程清々しい。
正法眼蔵の難解さに負けそうな私にしてみれば、これ程わかりやすい入門書はない。
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