送られてきた一枚の写真。
夜釣りの成果。
一面の黒に写真のフラッシュが反射して光る銀色。
そこに食材の鮮度なのか、
生命の輝きなのか、
純度の高いエネルギーを感じる。
だが、しかし、銀は金属を連想し、金属は生命の極北を連想させる。
陸上の生物で銀色の生物は
私が知る限り、
「ルリマダラ」の蛹だけだ。
銀色といったが、正確には鏡面。
擬態が周りの風景に溶け込むというのなら、
鏡面は周りの景色を反射することで同化する。
捕食者が近づけば、
その曲面に突然現れたゆがんだ自身の姿に驚くこともあるかもしれない。
一種の理想的な擬態だと思うが、
周りを見渡してみても主要な擬態方法とは言えないらしい。
つまりは陸上ではほぼ例外的なものとして生物の銀色は
存在している。
身近な動物、犬や猫、雀やカラスが銀色だったとしたら、
その姿に強烈な違和感を感じる事だろう。
けれど、魚には感じない。
金属らしさの片鱗すら。
その写真を見る限り、
その銀色は金属的な表現を拒絶している。
日本刀的な美しさで表現しようとすれば、鋭過ぎ、
光の加減で表現しようとすれば、生命力が薄まる。
陸上で見かける銀色と海の生物だと認識した銀色とでは
同じ言葉で表現しているけれど、
表現しようとしているものが違うのだ。
なんのことはない。
この写真を見て、『銀色』と表現してしまった事が
一人表現方法の迷路に迷い込んでしまった一番の原因だ。
しかし、ではそもそも
生命力を感じたこの写真はただの『思い込み』なのだろうか?
カメラ付き携帯のメールというリアルタイムなツール。
そこから発信されたが故の鮮度を、
被写体の生命力と捉えたのだろうか?
良く目を見れば、
スーパーで売られている魚とは全く違うことがわかる。
暗闇との対比からか
光の反射がよりニシンの姿に活きの良さを与えたのだろうか。
そもそも、私が言う活きの良さ、鮮度、生命力というのは
なんだろう?
それを知っている前提でここまで書いてきたが、
それらを感じることはそれらを知っていると言える。
しかし、それらを知覚している器官がどこなのかは
判然としない。
見てそうだと思うということは、
脳が知っている事になる。
けれど、その時私は写真にある背景を
触覚で気温を、目で形を、耳で波の音を、感じているのではないだろうか。
その記憶が幼少期にさかのぼるのか、
はてさて、
プラトンが説いたイデアなるものなのか。
それともたまたま自分が描いたそういった生命感と
この写真が一致したのか。
だが、この話、要は美しさの定義は人それぞれという
あの落としどころに収まるべき話なのかもしれない。
どんな食材だろうと
一番初めに口にした人間を尊敬する。
彼が食べ、抱いた感想がDNAとして、
連綿と受け継がれているというのも
考えてみると面白そうだ。
けれど、彼が食べたその一口を今の私が想像することは
それほど容易なことではないような気がする。
しかし、想像は止まらない。
今、私の中のニシンは
表面の皮が弾け、飛び散った油が火元に落ちた。
ヒレは適度な焦げを通り越して炭化し始めて、
火の勢いが強くなる。
片手にはビールか日本酒。
さて、思い込みだろうが、なんだろうが、
今からの一口に舌鼓を打たないはずはない。

夜釣りの成果。
一面の黒に写真のフラッシュが反射して光る銀色。
そこに食材の鮮度なのか、
生命の輝きなのか、
純度の高いエネルギーを感じる。
だが、しかし、銀は金属を連想し、金属は生命の極北を連想させる。
陸上の生物で銀色の生物は
私が知る限り、
「ルリマダラ」の蛹だけだ。
銀色といったが、正確には鏡面。
擬態が周りの風景に溶け込むというのなら、
鏡面は周りの景色を反射することで同化する。
捕食者が近づけば、
その曲面に突然現れたゆがんだ自身の姿に驚くこともあるかもしれない。
一種の理想的な擬態だと思うが、
周りを見渡してみても主要な擬態方法とは言えないらしい。
つまりは陸上ではほぼ例外的なものとして生物の銀色は
存在している。
身近な動物、犬や猫、雀やカラスが銀色だったとしたら、
その姿に強烈な違和感を感じる事だろう。
けれど、魚には感じない。
金属らしさの片鱗すら。
その写真を見る限り、
その銀色は金属的な表現を拒絶している。
日本刀的な美しさで表現しようとすれば、鋭過ぎ、
光の加減で表現しようとすれば、生命力が薄まる。
陸上で見かける銀色と海の生物だと認識した銀色とでは
同じ言葉で表現しているけれど、
表現しようとしているものが違うのだ。
なんのことはない。
この写真を見て、『銀色』と表現してしまった事が
一人表現方法の迷路に迷い込んでしまった一番の原因だ。
しかし、ではそもそも
生命力を感じたこの写真はただの『思い込み』なのだろうか?
カメラ付き携帯のメールというリアルタイムなツール。
そこから発信されたが故の鮮度を、
被写体の生命力と捉えたのだろうか?
良く目を見れば、
スーパーで売られている魚とは全く違うことがわかる。
暗闇との対比からか
光の反射がよりニシンの姿に活きの良さを与えたのだろうか。
そもそも、私が言う活きの良さ、鮮度、生命力というのは
なんだろう?
それを知っている前提でここまで書いてきたが、
それらを感じることはそれらを知っていると言える。
しかし、それらを知覚している器官がどこなのかは
判然としない。
見てそうだと思うということは、
脳が知っている事になる。
けれど、その時私は写真にある背景を
触覚で気温を、目で形を、耳で波の音を、感じているのではないだろうか。
その記憶が幼少期にさかのぼるのか、
はてさて、
プラトンが説いたイデアなるものなのか。
それともたまたま自分が描いたそういった生命感と
この写真が一致したのか。
だが、この話、要は美しさの定義は人それぞれという
あの落としどころに収まるべき話なのかもしれない。
どんな食材だろうと
一番初めに口にした人間を尊敬する。
彼が食べ、抱いた感想がDNAとして、
連綿と受け継がれているというのも
考えてみると面白そうだ。
けれど、彼が食べたその一口を今の私が想像することは
それほど容易なことではないような気がする。
しかし、想像は止まらない。
今、私の中のニシンは
表面の皮が弾け、飛び散った油が火元に落ちた。
ヒレは適度な焦げを通り越して炭化し始めて、
火の勢いが強くなる。
片手にはビールか日本酒。
さて、思い込みだろうが、なんだろうが、
今からの一口に舌鼓を打たないはずはない。
