昨日はいつも行ってるヨガ教室が予約でいっぱいだったのと、外ヨガをやりたくてやりたくていろいろさがして原宿のヨガスタジオにたどり着きました。

でも、外ヨガでもなければ、身体を動かすヨガでもなかった。

結果としては大満足。

何故か、筋肉痛にもなりました。笑。

常々思っていたのですが、ヨガをやっている人って、なんだか、柔らかい。

身体ではなくて、心持ちが。

震災復興のための教室だったので、財布にも優しい。笑。

会員制とか何故か女性のみだけだったりとか、始めに探していた時は狭い門だったけれど、始めてみると、コツがわかったのか色々と繋がってくる。

そして、今回で確信したのは、先生の名前はもれなく下の名前であるという事。これにも理由があるのかな?今度聞いてみよう。

経絡ヨガ始めての私にも懇切丁寧に教えてくれて、ヨガって?との本質的な疑問にも光明がさしてきました。笑。

覚えている限りでは、座る為の準備。マントラをよりよく唱える為により良く座る為の準備であると。

それはつまり「神様に接する為の準備」とでも言えるのではないでしょうか。

そこは坐禅とは違います。まぁ、坐禅の解釈も沢山あるでしょうが、ここでは道元のそれを。

道元は坐禅そのものが悟りであると説いています。
つまり、座ってしまえば即ち仏である。ということでしょう。さらにいえば、自身が在る事それが悟りである。

当然、比べるなら、神と仏を定義しないといけないですし、ぼんやりとした感想でしかないのですが。


また、二時間のクラスの内、後半の一時間ではマントラをひたすら唱えました。


そうかー。遂にマントラを唱えるのか自分はと言う感慨を表には出さず、ひたすら、真似して唱えます。そこに意味なんてない。そういう音があるだけ。

サンスクリット語だったかな?
聞き慣れない言語、舌の回らない音をひたすら発声する。
これが面白かった!
これが、仏教で言う、空に近いのではないかと。

と言うのも、わけも分からず音を繰り返して発声していると、次の言葉が分からなくても口が勝手に動く。なんだったかな?って立ち止まると思い出せない。
その口が勝手に動いている状態は凄く自分と言うのが曖昧で、しゃべる機械と言うよりも、音そのものになっている感じがするんです。

不思議だなあーと立ち止まるとまた、口が止まる。

その繰り返しであっという間に時間が立ってしまった。


馴染みはなかったし、何となく恥ずかしさもあったけれど、空間を創ると言う事をいつも以上に感じる事が出来ました。


そういえば、調べてみると外ヨガでお世話になっている先生と今回行ったとこにいる先生の1人は同じ団体?に所属しているみたいだ。


さらに、先生に先生と呼ばれている人がいたところを考えると、何人かは何処かで教えているのかもしれない。


何にせよ、なんのポーズもとってないのに、筋肉痛になったこの肉体はなんとかしなきゃいけないな…









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