これぞ小説。エンターテイメント。
読み終えるのが惜しい、けど止められない。
今回の主人公は張作霖
この小説を読んでみると面白い事に、
この名前は『ちょうさくりん』ではなく『チャンズォリン』と読んでしまう。
前回の主人公は『チュンル』。
『しゅんに?(こ?)』ではしっくりこない。
そんな風に氏名の読みは中国語を採用しているからか、
まるで、音の違う言葉を話している。雑音が中国語で聞こえてくるから不思議だ。
袁世凱は歴史上の人物なので未だに『えんせいがい』と読んでも聞いても違和感はない。
けれど、それは無味乾燥な知識上の彼。
血肉の通う、実在した人物はやはり『ユアンシーカイ』なのだ。
小説だからその人物像の迫真に迫っている必要はなく、
自分もそれを承知で読んでいるから
本当の袁世凱はきっと小説とはまた違っているに違いない。
けれどその彼もまた『ユアンシーカイ』でしかないのだ。
そう考えると、氏名の呼び方と言うのはとても重要なのかもしれない。
中国で自分の名前を発音してくれと頼んだら、
『カンジェン コンジェー』と言われた。
けれど、私は『カンジェン コンジェー』ではない。
それと同様に英語における氏名の逆転も違和感を感じる。
『たろう やまだ』として、
それは
『taro yamada』であって、
『山田太郎』とは別の人間のような気がしてしまうのだ。
確かにその国の読み方にならうのは至極当然の事だろう。
しかし、
アメリカで『taro yamada』だとしても、
それはあくまでここ(アメリカ)にいるからそうなるのであって、
本当は『yamada taro』なんだと『音』を伝える事も文化を伝える事になりはしないだろうか?
そこにあるのは音の響きであって、氏名の逆転等と言うものはどうでもいい。
母国語で発音する自分の名前はきっと美しい。
それは母国語で作られたから当たり前だろう。
それをむりやり、海外に合わせてしまうと、
途端に意味が消えて音符だけが残って、
最終的には『ニックネーム』になってしまう。
『ニックネーム』が悪いのではなく、
『本名の音質』を無くしてしまうのが惜しい気がするだけなのだ。
それは小学生のころ、アルファベットという
なんだか『かっこいい』文字を教えてもらい始めた頃からの違和感。
この小説を読んでいて、
やはり、中国語は中国語で発音した方が美しいと感じ、思い出したのだろう。
『ユアンシーカイ』が暗殺されそうになった時、
そこで聞こえていた雑踏は確かに中国語の雑踏だった。
紙面上では
黄色い土埃が目の前を覆い、
既に体感として、
風が強く、切る程に冷たい。
読み終えてしまう残りのページ数を指先に感じ、
開けた空の青さは白き虎に良く似合う。
中原の虹 (3) (講談社文庫)/浅田 次郎

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読み終えるのが惜しい、けど止められない。
今回の主人公は張作霖
この小説を読んでみると面白い事に、
この名前は『ちょうさくりん』ではなく『チャンズォリン』と読んでしまう。
前回の主人公は『チュンル』。
『しゅんに?(こ?)』ではしっくりこない。
そんな風に氏名の読みは中国語を採用しているからか、
まるで、音の違う言葉を話している。雑音が中国語で聞こえてくるから不思議だ。
袁世凱は歴史上の人物なので未だに『えんせいがい』と読んでも聞いても違和感はない。
けれど、それは無味乾燥な知識上の彼。
血肉の通う、実在した人物はやはり『ユアンシーカイ』なのだ。
小説だからその人物像の迫真に迫っている必要はなく、
自分もそれを承知で読んでいるから
本当の袁世凱はきっと小説とはまた違っているに違いない。
けれどその彼もまた『ユアンシーカイ』でしかないのだ。
そう考えると、氏名の呼び方と言うのはとても重要なのかもしれない。
中国で自分の名前を発音してくれと頼んだら、
『カンジェン コンジェー』と言われた。
けれど、私は『カンジェン コンジェー』ではない。
それと同様に英語における氏名の逆転も違和感を感じる。
『たろう やまだ』として、
それは
『taro yamada』であって、
『山田太郎』とは別の人間のような気がしてしまうのだ。
確かにその国の読み方にならうのは至極当然の事だろう。
しかし、
アメリカで『taro yamada』だとしても、
それはあくまでここ(アメリカ)にいるからそうなるのであって、
本当は『yamada taro』なんだと『音』を伝える事も文化を伝える事になりはしないだろうか?
そこにあるのは音の響きであって、氏名の逆転等と言うものはどうでもいい。
母国語で発音する自分の名前はきっと美しい。
それは母国語で作られたから当たり前だろう。
それをむりやり、海外に合わせてしまうと、
途端に意味が消えて音符だけが残って、
最終的には『ニックネーム』になってしまう。
『ニックネーム』が悪いのではなく、
『本名の音質』を無くしてしまうのが惜しい気がするだけなのだ。
それは小学生のころ、アルファベットという
なんだか『かっこいい』文字を教えてもらい始めた頃からの違和感。
この小説を読んでいて、
やはり、中国語は中国語で発音した方が美しいと感じ、思い出したのだろう。
『ユアンシーカイ』が暗殺されそうになった時、
そこで聞こえていた雑踏は確かに中国語の雑踏だった。
紙面上では
黄色い土埃が目の前を覆い、
既に体感として、
風が強く、切る程に冷たい。
読み終えてしまう残りのページ数を指先に感じ、
開けた空の青さは白き虎に良く似合う。
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