時代時代によって、移り変わる景色とその意味。
模写される景色が移り替わり、庭が変わり、
都市が変わっていく。
その流れをとらえた一冊。
そもそも、ヴェルサイユ宮殿で目指した庭と
修学院や桂離宮で目指した庭は
同じであったという。
どちらも自然の本質的な美しさを求め、
一方ではそれは幾何学的な美しさに本質を感じ、
一方では自然そのままの美しさに本質を感じただけである。
絵画においても、
山や海の個人的な美しさを表現しだしたのは、
セザンヌ以後らしい。
それまでは、神の住まいとして表現さる事は
あっても、それ以上でもそれ以下でもないものだった。
私たちが今セザンヌの絵を見て、美しいとか
山の雄大さを感じさせるとか、そういう事を
感じているのはセザンヌ以前の感性を持ち合わせていないからだ。
それまでは、山は山のまま。
今でいえば、電柱とかブロック塀とか、
あるのはわかっているが記述、記憶、認識するほどの事では
ないと思っている種類の物事であるだろう。
嫌な話で、
田舎に自然を求めて住まおうとする人ほど、
現地の自然保護に熱心だと言う。
それは自然を求めているのではなく、
自分が自然だと思っている風景に近い
土地へ移住し、そのイメージを崩さないように
する。
そして、もともとの住人にとっては
気にも留めない『電柱』のような存在に
固執するのだと言う。
それでは、そこの土地の開発は遅れてしまうし、
元々の住民にとっては彼らが来る事によって、
得られるメリットよりも
奪われる自由の方が大きいだろう。
昔、国語教科書か何かで読んだ、
田園風景の話を思い出す。
あれは決して自然な風景ではなくて、
人工的なものである。
しかし、人は田舎を想像するときに、
風に揺れる黄金色の稲を想像し、
郷愁に駆られたりするのはどういった事だろうか。
と言う話だった。
今、自分たちが自然だと認識しているものは、
守られ、維持され、制限された『人工』であろう。
国立公園に足を踏み入れると分かるが、
あの圧倒的な森林や湖を公園と称し、
コントロールし、往時を維持しようと努めている。
しかし、それ自体がすでに不自然であり、
人工的である。
いや、人工的という言葉はあくまでも便宜的なものにすぎない。
自然の反対後のように使われているが、
まるでおこがましいというか
如何にも人間らしい言葉の使い方だと思う。
まるで、自分たちは自然から抜け出したかのような
言い草が私にはあまり好きになれない。
そして、すでに定められてしまった自然は自然とは
言えない。
そこにある事がわかってしまったのだから。
自然はいつも気のつかないところにある。
だから、自然なのであって、無為であるのだろう。
日本の風景・西欧の景観 そして造景の時代 (講談社現代新書)/オギュスタン・ベルク

¥735
Amazon.co.jp
模写される景色が移り替わり、庭が変わり、
都市が変わっていく。
その流れをとらえた一冊。
そもそも、ヴェルサイユ宮殿で目指した庭と
修学院や桂離宮で目指した庭は
同じであったという。
どちらも自然の本質的な美しさを求め、
一方ではそれは幾何学的な美しさに本質を感じ、
一方では自然そのままの美しさに本質を感じただけである。
絵画においても、
山や海の個人的な美しさを表現しだしたのは、
セザンヌ以後らしい。
それまでは、神の住まいとして表現さる事は
あっても、それ以上でもそれ以下でもないものだった。
私たちが今セザンヌの絵を見て、美しいとか
山の雄大さを感じさせるとか、そういう事を
感じているのはセザンヌ以前の感性を持ち合わせていないからだ。
それまでは、山は山のまま。
今でいえば、電柱とかブロック塀とか、
あるのはわかっているが記述、記憶、認識するほどの事では
ないと思っている種類の物事であるだろう。
嫌な話で、
田舎に自然を求めて住まおうとする人ほど、
現地の自然保護に熱心だと言う。
それは自然を求めているのではなく、
自分が自然だと思っている風景に近い
土地へ移住し、そのイメージを崩さないように
する。
そして、もともとの住人にとっては
気にも留めない『電柱』のような存在に
固執するのだと言う。
それでは、そこの土地の開発は遅れてしまうし、
元々の住民にとっては彼らが来る事によって、
得られるメリットよりも
奪われる自由の方が大きいだろう。
昔、国語教科書か何かで読んだ、
田園風景の話を思い出す。
あれは決して自然な風景ではなくて、
人工的なものである。
しかし、人は田舎を想像するときに、
風に揺れる黄金色の稲を想像し、
郷愁に駆られたりするのはどういった事だろうか。
と言う話だった。
今、自分たちが自然だと認識しているものは、
守られ、維持され、制限された『人工』であろう。
国立公園に足を踏み入れると分かるが、
あの圧倒的な森林や湖を公園と称し、
コントロールし、往時を維持しようと努めている。
しかし、それ自体がすでに不自然であり、
人工的である。
いや、人工的という言葉はあくまでも便宜的なものにすぎない。
自然の反対後のように使われているが、
まるでおこがましいというか
如何にも人間らしい言葉の使い方だと思う。
まるで、自分たちは自然から抜け出したかのような
言い草が私にはあまり好きになれない。
そして、すでに定められてしまった自然は自然とは
言えない。
そこにある事がわかってしまったのだから。
自然はいつも気のつかないところにある。
だから、自然なのであって、無為であるのだろう。
日本の風景・西欧の景観 そして造景の時代 (講談社現代新書)/オギュスタン・ベルク

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