語り部の名は『蔫薑(えんきょう)』

恐らくは架空の人物だろう。まがった生姜とかそんな意味であるらしい。誰がつけたのかもわからないあだ名だそうだ。

さて、彼の名前も明らかになり、その場の誰に話しているかも明らかになってくる第二章。

彼の口から、及ばないながらも孔子の言葉をその前後の状況から自分の体験を踏まえて解釈していく。

孔子の本はまだ二冊目だが、どうやら孔子と言う人物はかたっくるしい人物ではなかったと伝えられていると考えて間違いないだろう。

50にして天命をしる。

その意味はなんとなくわかっているつもりだった。

けれど、ここでは文章の解釈ではなく、天命そのものの解釈へ。

一同に坐した人々から意見が出、解釈が詰まっていく。

考えてみたら、孔子自身を描くことは到底できないのかもしれない。
彼の言葉を彼の思考を通して語ることは恐らく膨大な量の説明が必要となるのだろうから。

そして、描き足りない部分があれば、孔子の本質とはずれてしまうほど、繊細であるのだろう。
しかし、その真の意味を孔子の言葉から類推し、頭を悩ませることが論語を読むという事に必要な事なのかもしれない。

孔子 (新潮文庫)/井上 靖

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