さて、いよいよ、中国古典を本格的に読んで行きたいと思います。
今回は安岡正篤の『論語を読む』。
論語にある逸話の解釈から孔子の弟子達に至るまでを網羅し、一行も気を抜けない状態でした。
なので、フォトリーディングはほとんどしていません。
儒教は礼儀を重んじるということが最も重要かと思っていましたが、どうも読み進めていくとそうでもない。
相手と言うよりもむしろ自分自身。
それも、安岡解釈によればという注付きにはなりますが。
ただ、論語というのはそういう読み物なのだという事になるだけの話であって、解釈の正誤は的確であれば無いに等しいのではないだろうか?
それほどに、深く、奔放であるという事だ。
『論語読みの論語知らず』字面だけ追いかけその深層にたどり着けないまま、読んだ気になってしまっている人の事かと思っていたが、ここでも、安岡解釈は、自己を見つめなおす。
論語の研究を重ね、知った気になっていたものの、読み方そのもの、解釈そのものがまるで浅かったというような事に気づき、そこから論語の心中へと入っていこうとする様は狂気すら覚える。
狂気とは自己鍛練への狂気であり、彼の立場であればそれはすなわち、弟子や教え子達の成長と等しいことなのだ。
それほどにしてまでやらなければ追い付かない論語いや自己鍛練とは一体なんなのだろうか?とふと思う。
ただし、今の日本を見てみれば、おのずから指導者が育っていないのは一目瞭然であり、それは結局国民自体がだらけてきているせいだとは思う。
だれが指導者でだれが国政を行おうが、それを非難しかできない国民は無力であるし、足元の蟻のような存在でしかないだろう。
人格ではなく、立場で人の上に立ててしまう事の恐ろしさ。
今の政治家に論語を読んだ感想を是非とも聞かせてもらいたい。
孔子と言う人は礼儀に厳しく、そして、固い。そんなイメージがあったが本書の最後の方に書かれていた彼の人物像はまるで違う。
むしろ、老子の無邪気と重なった。
感激する心を持ちつづける。
それが寝食を忘れさせ、苦しみの中に楽しみを見出す事ができる。
忙しい時に見つける閑が本当の休息であり、だらだらと時間を過ごすくらいなら、ギャンブルでもしていたほうがまだましだ。
孔子とは滾る情熱にあふれた人だった。
一瞬、岡本太郎の顔が脳裏に過った。
今回は安岡正篤の『論語を読む』。
論語にある逸話の解釈から孔子の弟子達に至るまでを網羅し、一行も気を抜けない状態でした。
なので、フォトリーディングはほとんどしていません。
儒教は礼儀を重んじるということが最も重要かと思っていましたが、どうも読み進めていくとそうでもない。
相手と言うよりもむしろ自分自身。
それも、安岡解釈によればという注付きにはなりますが。
ただ、論語というのはそういう読み物なのだという事になるだけの話であって、解釈の正誤は的確であれば無いに等しいのではないだろうか?
それほどに、深く、奔放であるという事だ。
『論語読みの論語知らず』字面だけ追いかけその深層にたどり着けないまま、読んだ気になってしまっている人の事かと思っていたが、ここでも、安岡解釈は、自己を見つめなおす。
論語の研究を重ね、知った気になっていたものの、読み方そのもの、解釈そのものがまるで浅かったというような事に気づき、そこから論語の心中へと入っていこうとする様は狂気すら覚える。
狂気とは自己鍛練への狂気であり、彼の立場であればそれはすなわち、弟子や教え子達の成長と等しいことなのだ。
それほどにしてまでやらなければ追い付かない論語いや自己鍛練とは一体なんなのだろうか?とふと思う。
ただし、今の日本を見てみれば、おのずから指導者が育っていないのは一目瞭然であり、それは結局国民自体がだらけてきているせいだとは思う。
だれが指導者でだれが国政を行おうが、それを非難しかできない国民は無力であるし、足元の蟻のような存在でしかないだろう。
人格ではなく、立場で人の上に立ててしまう事の恐ろしさ。
今の政治家に論語を読んだ感想を是非とも聞かせてもらいたい。
孔子と言う人は礼儀に厳しく、そして、固い。そんなイメージがあったが本書の最後の方に書かれていた彼の人物像はまるで違う。
むしろ、老子の無邪気と重なった。
感激する心を持ちつづける。
それが寝食を忘れさせ、苦しみの中に楽しみを見出す事ができる。
忙しい時に見つける閑が本当の休息であり、だらだらと時間を過ごすくらいなら、ギャンブルでもしていたほうがまだましだ。
孔子とは滾る情熱にあふれた人だった。
一瞬、岡本太郎の顔が脳裏に過った。