よもぎの里という奥多摩にある温泉にて思う。
はるか下に川を見下ろし、眼前には木々の緑。
露天風呂の淵に胡坐をかいて、初夏の風を肌に浴びる。
リラックスを実感したわけでもないが、その時ふと、自然と一体になるという事について考えてみた。
幾重にも覆われた葉の隙間から見える巨大な岩。
そこに自分が座っているような感じがした。
落ちてくる葉や花弁、近くをかすめていく羽虫を払うことなく、ただそこにある。
その時思った。
今、自分と言う『我』は存在しないと。
樹や川や虫や空気と同じようにただそこに『ある』
風邪をひくかもしれないとかそろそろあがらなきゃとかそういった『自分の意志』というものがなくなって、自分と言う存在があるというだけ。
ここでいう自分とは記号でいう『1』であって、それ以上でも以下でもない。
個性だ経験だ生まれがどうのと言う事は『1』を構成する分子であり、それほど重要でも何でもない。
だから、自分と言う言葉を使うには少し個性的すぎる感もある。
おそらく『我』というものから見た世界は自分があって、世界がある。自分と言うフィルターを通して見る自然はいつの間にか取捨選択されているし、好き嫌いに分別されがちだ。
けれど、そこに存在しているものにはそんな事はどうでもいいことであって、岩は岩としてそこにあるだけなのだ。
そちら側の世界からすれば岩はなんと言われようとも岩である前の『何か』なのであって、そこにただ『ある』と感じた自分自身もまた『私』である前にの『何か』であるのだと思った。
どんなに冷たい風が吹こうが、強い雨が降ろうが、揺るがない根本的な『何か』。
(それは転じてみれば、外的な影響に対して『私』を守るために壁を作ってしまっている事に他ならないのかもしれない)
乱暴になるかもしれないが、『自分も含めてすべてはどうでも良い』。
なぜならば、なるようにしかならないから。(なるようにしかならないというのは近そうで遠い表現のような気がする。『在る事で成る』絞るとしたらこんな言葉になるかもしれない)
けれど、それは生きていく上での一側面を照らしただけにすぎない事なのだろう。
もしかすると、老子はこんな事を考えていたのだろうか?今度読んでみる事にしよう。
はるか下に川を見下ろし、眼前には木々の緑。
露天風呂の淵に胡坐をかいて、初夏の風を肌に浴びる。
リラックスを実感したわけでもないが、その時ふと、自然と一体になるという事について考えてみた。
幾重にも覆われた葉の隙間から見える巨大な岩。
そこに自分が座っているような感じがした。
落ちてくる葉や花弁、近くをかすめていく羽虫を払うことなく、ただそこにある。
その時思った。
今、自分と言う『我』は存在しないと。
樹や川や虫や空気と同じようにただそこに『ある』
風邪をひくかもしれないとかそろそろあがらなきゃとかそういった『自分の意志』というものがなくなって、自分と言う存在があるというだけ。
ここでいう自分とは記号でいう『1』であって、それ以上でも以下でもない。
個性だ経験だ生まれがどうのと言う事は『1』を構成する分子であり、それほど重要でも何でもない。
だから、自分と言う言葉を使うには少し個性的すぎる感もある。
おそらく『我』というものから見た世界は自分があって、世界がある。自分と言うフィルターを通して見る自然はいつの間にか取捨選択されているし、好き嫌いに分別されがちだ。
けれど、そこに存在しているものにはそんな事はどうでもいいことであって、岩は岩としてそこにあるだけなのだ。
そちら側の世界からすれば岩はなんと言われようとも岩である前の『何か』なのであって、そこにただ『ある』と感じた自分自身もまた『私』である前にの『何か』であるのだと思った。
どんなに冷たい風が吹こうが、強い雨が降ろうが、揺るがない根本的な『何か』。
(それは転じてみれば、外的な影響に対して『私』を守るために壁を作ってしまっている事に他ならないのかもしれない)
乱暴になるかもしれないが、『自分も含めてすべてはどうでも良い』。
なぜならば、なるようにしかならないから。(なるようにしかならないというのは近そうで遠い表現のような気がする。『在る事で成る』絞るとしたらこんな言葉になるかもしれない)
けれど、それは生きていく上での一側面を照らしただけにすぎない事なのだろう。
もしかすると、老子はこんな事を考えていたのだろうか?今度読んでみる事にしよう。