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【私の眷属の宿命転換を祈って】②

 

私の母は、宮城県の内陸の町で生を受けた。古川町という内陸の田舎町。
現在は、大崎市に変更になっている。

大正時代の末期であった。

母の父親は、最中(もなか)の皮製造の仕事をしていたそうであるが、事業はうまくいかず、母が2歳になったころに、家族全員で北海道に移住した。
過酷な環境に、小さな子供を連れていけないという判断で、家族の中で、一番手がかかると思われた末娘、つまり
私の母だけが、地元の親戚に養子として入り、残された。


やがて、北海道に渡った家族の中で父親は、行方不明となって帰らぬ人となった。私にとっては祖父であるが
もちろん、一度もあったことはない。

私の母は、子供がいなかった親戚の家でただ一人の子供として育てられた。経済的に裕福であったその家庭で、母はすくすくと育っていたが、12歳の時に、養母から、真実を話されたそうだ。

多感な少女時代の中で、母はその事実を知って泣いた、
そして思ったそうである。
「私は 捨てられた子供なんだ」
少女時代の母の写真は、何枚も残っているが、おかっぱ頭の女の子の表情は悲しそうで、笑っていない。


やがて女学校を卒業させていただき、地元の役所に勤務。
当時の田舎町の子供の大半は、高等小学校を卒業した時点で社会に出て行くのがほとんどだった。
そうした教育面での恵まれた環境に、母はいつも感謝の想いの話しかしなかった。
でも、本当は生活が大変でも、北海道へ家族とともに行きたかったのだろう。
思い出話をするときの母は、半分にこにこしつつ、時折涙顔になるのが常だった。

そして、年頃になったころに、見合いの話をいただいた。

母は、小さなころから、内臓関係が弱く、病弱だった。
そんなわたしが結婚などは出来ないと当時思っていたそうで、そのお見合いは
断り切れなかったので、見合いの相手に嫌われようと考えながら見合い当日、石巻に向かったそうである。

その見合いの最中(さいちゅう)、靴下を上げるために、わざとテーブルに足をあげて
直す態度をとったそうである。
そんなはしたない態度の抵抗も功を奏せず?、見合いは成立。結婚が決まった。
そして
石巻市の父のお店兼工場の近くの、8畳と台所があるだけの貸家で、二人の
生活は始まった。
父は一生懸命真面目に働いていたので、生活は、当時にしては豊かだったという。
父は真面目な男だった。曲がったことが大嫌い。
そうした父の生き方や考え方に、製麺問屋の社長も共感していて、給料面でも
かなり優遇されていたようである。

しかしながら
ここから、宿命の嵐は、吹き始める。
初めて授かった子供は、未熟児として、難産の末、ようやく生まれた。
男の子だった。
弱弱しく、いつ病気になって亡くなってしまうかわからないほどのかぼそさだった。

母は、腎臓と心臓を悪くしていて、子育ても大変だった。
そして未熟児の長男を守るために毎日のように息子を病院に連れて行って無理をしていた。
腎臓病もなかなか回復しなかった。
そして、二人目の子宝を授かった。
しかしながら、医者から、子供はもう産めない身体です、お腹の子は諦めなさい、と宣告されたそうである。

母は途方に暮れた。父にも相談したが、母思いの父でもどう決断すればいいか迷ったそうである。

どうしていいかわからない中で、母のおなかの子供はどんどん大きくなっていく。
そんな状況の中で、仙台より、知り合いのTさんがある日訪ねてきた。

母の話を聞いたTさんは、どんな悩みも解決できる信仰があるから、
やりましょう、と確信をもって母に入会を勧めた。
このままでは、子供も自分の命もどうなるかわからない、という中で
母は決心した。わかりました、是非やってみたいです。
昭和27年10月のころのことであった。

昭和27年2月、創価学会の鎌田支部幹事であった池田先生のご指揮のもと、
東京の鎌田支部が、201世帯の前人未到の折伏成果が出された。その闘いの情報は瞬く間に全国の地方支部に伝わり、
折伏の勢いは、地方支部のひとつ、仙台支部にも波動が伝わっていく。
その折伏戦の勢いが増し、東北中に折伏戦の闘いは徐々に広がっていった。
当時の仙台支部の支部員であったTさんは、親戚などがいる石巻にも通い始めていた。  
石巻市は、まだ創価学会の地区さえできていなかった。
創価学会員も市内に数名程度だった。