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【私の眷属の宿命転換を祈って】①


 

私の父が、舞鶴港に着いたのが、1947年7月ごろ。
満州にて、中国軍との戦闘を命ぜられて、中国北部に、衛生兵として行っていた。そして1945年8月15日第二次世界大戦は終結したはずだった。


満州に駐留していた日本兵は、武器を取り上げられて、つまり武装解除されて本国に強制帰還させられる予定だった。
しかしほとんどの日本兵は、中国の日本海側には行かされずに、満州よりさらに北東部へとロシア軍によって強制連行させられた。
到着したところは、真冬は、-50度になるような極寒の地、シベリアの森林地帯。ロシア兵による日本兵の強制労働の始まりだった。


戦争は、すべての人間の心の在り様を、狂気という凍り付く大地へと変えてしまう。人間に対する尊厳のあるべき心は、埋伏されて、ただ畜生道の上下関係での命が全てになる。支配する側(その権利もなかったのに)とひたすら服従する敗戦国兵との関係性しかその氷土には、ない。


戦争は平常の倫理観をぶち壊して、なんでもありの不条理な世界をそこら中に作ってしまう。



父は2年間、シベリアの大地に抑留され、ようやっと解放されて、中国のどこぞの港から、日本へと送られた。ともに労働していた仲間たちの半分ほどはその間に命を落としていた。
共産主義に支配された人間は、それほどに残酷なのだ。

誤った思想ほど怖いものはない。

かつての日本が、国家神道を国民に強要して、従わない正義の人が、
治安維持法という天下の悪法によって、逮捕され、迫害された歴史と同じである。
共産主義国は、一様に自国民に対しても残酷であり、容赦しない。

まして他国民の生存の権利など、全く考えない恐ろしい思想なのだ。

生命の尊厳を守る精神の逆の原理が、戦争という環境によってつくられて、それがただ一つの絶対的正義となっていた。
心の腐ったものどもが、権力を握ることほど、怖いことはない。

父は舞鶴から、どのようにして故郷の宮城県桃生郡の実家農家に帰還したのかを私は知らない。その後、すぐに、高等小学校卒業後に以前奉公していた石巻町の製麺問屋にて、また働き始めた。男7人兄弟の3番目にとって、生きていく場所は実家農家ではなく、どこかの奉公先しかない、そんな時代であった。戦地から戻ってきたその時には、父は25歳になっていた。青春時代は暗黒の戦争の時期と重なる。それが当たり前の時代。ある年代になれば、男子はほぼすべてどこぞの戦地へと出兵していく。国を作っていく基盤の労働力は残された女性と、年老いた男性が発揮するしかない。


そうやって東北の田舎町で再出発の人生を生きていきはじめた父に、製麺問屋の優しい旦那さんが、お見合い話を持ってきて、父に紹介することになった。父は奉公頭?のために、その製麺問屋の、今で言えば営業部長役になっていて、何とか生活していく経済的基盤をいただいていた。だからそのお見合い話を拒むということは、なかったのかもしれない。