3.天国の正体
『ランニング・ワイルド』は、囚人たちの更生プログラムとして、野生馬の調教を始める牧場主が主人公だ。牧場にやってきた囚人たちとその罪状は以下の通り。
■ ジョン
重窃盗で五年の刑。今は六度目で刑期の終盤。
仮釈放がかかっているが、短気なスコットランド人で注意が必要。
■ カルロス
養育費の不払いと脱税、違法銃器所持。
■ デイブ
飲酒運転で殺人、六年の刑。話し出したら止まらない。
■ マット
ネットなどで詐欺。この中では一番賢いが覚醒剤中毒。
治療中にプログラムに申し込んだ。
■ デブリックショー
少年院を出た二週間後に放火。
不運に見舞われているため、幸せな経験が必要。
更生プログラムは彼のためにあるようなもの。
当初アイルランド人(〈魂の双子〉説を唱えたジェイムズ・ジョイス)と混同されていた「ジョン」がスサノオであり、「カルロス」が「娯楽としての物語」、よく喋る「デイブ」がブラフマーで、覚醒剤中毒の「マット」はキノコであり、不運な「デブリックショー」が、長く精神病棟に隔離され、実父ジェイムズを運命の恋人と見なさざるをえなかったルチア・ジョイスだ。
「水」が「理性的な力、批判する力」であるのなら、「酒」は「酔わせる力、物語の力」を指すだろう。ブラフマーは「酒」に酔ってドライブしていたために、私を日常生活から抹消してしまった(殺してしまった)し、カルロスは自分の持っているものが凶器だとは知らなかった節がある。税の収め方(「聖典」への接続の仕方)もわからなかったに違いない。
いろいろ書いてきたけれども、私だって、「作品」や「物語」について、制作を始める以前から何もかも承知していたわけではないし、今も知らないことはたくさんある。たまたまこの現象の当事者となった以上、再考せざるをえなかった事柄を伝えているだけだ。だからこれまでやり方を間違ってしまった作品があっても仕方がなかったってことはよくわかる。切腹や反省の態度なんかいちいち要求しないから、これからどうするかを各自考え、実行して欲しい。
とは言え『聖書』をお手本にするのに抵抗があるのもわかります。ごく端的に言って、わけのわからないことがたくさん書いてあるものだから。例えば「神は死を滅ぼす」という言葉。
万軍の主はこの山で祝宴を開き
すべての民に良い肉と古い酒を供される。
それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。
主はこの山で
すべての民の顔を包んでいた布と
すべての国を覆っていた布を滅ぼし
死を永久に滅ぼしてくださる。
主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい
御自分の民の恥を地上からぬぐい去ってくださる。
これは主が語られたことである。
『イザヤ書』25:7,8
死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。
兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。
「死は勝利にのみ込まれた。
死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
死よ、お前のとげはどこにあるのか。」
『コリントの信徒への手紙 一』15:42-55
ご覧の通り、宗教書らしく衒うことなくスピリチュアルな語彙を連発して来るものだから、ほんの小さな子供であったとしても、論難するのは難しくないだろう。けれど、『聖書』と呼ばれる作品を擁護し、リスペクトしてきたのは、何も私だけではなかったはずだ。これといった成果物も、大した知名度もなく、どこの馬の骨かもわからないぽっと出の私を信じられない真っ当な神経をした大人たちでも、聖書にインスパイアされた歴代の大作家、大芸術家たちが揃いも揃って馬鹿ばかりだったとは限らないという点くらいは、きっと同意してくれるに違いないと思う。ちょっと気の利いた思いつきとか、いかめしく威嚇的なばかりで無内容な脅し文句、口から出るに任せた調子のいい出鱈目や、地に足の着かないフワフワした空想、虚言とクリシェと妄想の数々が列挙されているだけだったら、いかなる権威も、数千年もの永きに渡って丁重に保存、継承、伝播されては来なかったはずである。
仮に私の言う「倫理観や文化を破壊する特異な現象」に対する処世術であるという説を採用し、それを差し引いたとしても、なお聖書がわからないのは、これを現代の書物のカテゴリーのままに理解しようとするからなのだ。それは歴史書であり、預言書であり、ファンタジーであり、SFでもあり、法律に関する書物であると同時に、倫理や道徳を説いた本であり、生き方の指針であり、何よりも巨大な問題集なのである。無理なことを書いているのは著者自身がよくわかっている。ただ、それが問題であると読者が認識できる限りにおいて、「無理な文言」は、「どのように解釈すれば実現しうるかという課題」へと変化するのだ。
『コリントの信徒への手紙 一』でパウロが述べていることをまとめてみる。
- 「肉の体」と「霊の体」がある。
- 「肉の体」がある限りにおいて「霊の体」もある。
- 最初の人アダムは「肉」の命を授けられたが、最後のアダム(イエス)は命を与える「霊」となった。
- 最初の人アダムは「地に属する者」であり、最後のアダムは「天に属する者」である。同様に、「地に属する者」「天に属する者」がそれぞれ存在する。
- わたしたちは「地に属する者」であるアダムの似姿となっているが、同様に、「天に属する者」の似姿にもなる。
- 「肉の体」を持つ「地に属する者」は、「神の国」および「朽ちないもの」を受け継ぐことはできない。
- わたしたちはただ死ぬわけではない。「朽ちるべきもの」が「朽ちないもの」へと作り変えられる時が来る。その時に死が滅ぼされる。
先に答えを言ってしまうと、「朽ちないもの」ないし「天に属する者」とみなされる「霊」とは、人の「考え方」を指している。考えてみて欲しい。人の「その人らしさ」とは、肉体という以上に、その人が持つ独特の考え方に宿っているとは言えないだろうか。身近な人が痴呆を患ったとき、大きな衝撃を受けてしまうのはそのせいだ。あなたの行動や受け答えを決定する心の仕組み、いわばあなたを動かすプログラムを「霊」と、この時パウロはそう呼んだ。
さらに「最後のアダム(イエス)が命を与える「霊」となった」、「最後のアダムは「天に属する者」である」というのは、『新約聖書』が編纂される過程で、この「霊」に対する意識が、『旧約聖書』のときよりも、よりはっきりと顕在化してきたことを示している。「肉の体」を律する『旧約聖書』の成果として集積した多彩な物語は、いわば無数の「考え方」だ。それらの行き着く先、つまり活用法を、パウロたちは思考していたのである。
一見関係ないようだけれども、水面下で互いに連なり合い、共闘して共通の答えを導き出すことができる物語の群の拡がりを「神の国」と呼ぶ。「『肉の体』を持つ『地に属する者』は、『神の国』および『朽ちないもの』を受け継ぐことはできない」とは、自身を自身の肉体としてのみ定義し、それにこだわり続けている限り、自らを「神の国」の一部として捉えることはできないということを意味している。自分自身に対するのみならず、他者に対する態度も同様だ。他者を他者の肉体であると同時に、その人の「考え方」とみなすことは、他者の尊厳を守ろうとする態度に重なっていくだろう。
そして人は自らを純粋に「考え方」とみなしうる限りにおいて、決して「朽ちないもの」となる。物体であることを離れてはじめて、「死」という不可避の生理現象を免れるのだ。加えてパウロの言によれば「わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。(『コリントの信徒への手紙一』15:51-53)」という。
これはすなわち、『新約聖書』編纂時にもあったような、「聖典」たちを種とした収穫物としての作品の「刈り入れ」が、今後なされていくことを示している。私もそこに携わり、長く沈黙することになるだろう。「変えられる」とは、「人間が『考え方』とみなされるようになる」という変化を示すのみならず、「物語(作品)の保存形式がこれまでとは違ったものに変換される」ことをも示しうる。物語(作品)の形式を変えて抽象化したとき、個々がそれと識別しうるだけの同一性をどこまで保っていられるか。そしてまた同様に、人を「考え方」として見た場合、「神の国」の一部として共に善を志向しながらも、自らを他と見分けうるだけの独自性を、どのように保っていられるか。
言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。
『マタイによる福音書』12:36,37
生きている間、人は何らかの考えを表明することができ、死後も、生前表明された考えを元に、その人の「考え方」を推察することができる。しかし、考えが都度状況に左右され、ぶれまくって「考え方」とみなしうるほどには定まっていなかったり、倫理と文化を破壊する〈魂の双子〉の説に準じて刹那的な現在を享受し、未来を見据えていなかったり、その「考え方」に良い作品を生み出しうるだけのキャパシティが備わっていなかったりすれば、「神の国」の構造の一部としてカウントされることはないだろう。
私たちが日々思い思いにコメントする由無し事の量に対し、死後も「考え方」として残していけるものはほんのわずかなのである。「天の国」の存在を知る作家たちは、少しでも多くの「考え方」を残すために、日々研鑽を続けてきた。それはほんの小さな思いつきでも構わないが、決して生半可ではあり得ないのだ。
だから物知りな人、例えば学者は、知識を所有するばかりでなく、こうした作品を新しく手がけようとする現在の作り手たちが使い易いように解放していくといいと思う。今は彼らの知識となっている作品も、かつてそのように作られてきたのであり、また、そうした知識を元手とする作品が増えることで、知識の需要も拡大する可能性があるからだ。
4.みんな結婚
森を包む深い霧を晴らすには、祖父の代に起こった殺人の発端であり、ノーサルドラとアレンデールの不和の象徴であるダムを壊すしかないと知ったアナは、土の精霊・アースジャイアントたちの力を借り、アレンデール上流のダムを破壊する。押し寄せる大水によってアレンデールが流されそうになると、迸る水面を駆って、馬を象った水の精霊に騎乗したエルサが到着し、氷の魔法を使って水をせき止め、アレンデールの街を守る。
他方で、『天気の子』の東京は、天気の巫女の宿命として消え去ろうとしていた陽菜を助けた代償として、その大部分が水底に沈んでしまう。「アレンデール」と「東京」、二つの街が迎えた対照的な結末は、しかしどちらか一方ではなく、双方同時に実現することだろう。
わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」
すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。
『ヨハネの黙示録』21:1-5
馬に乗ったエルサが人々を助けるエピソードは、『アナと雪の女王2』の冒頭で幼少期のアナとエルサが人形遊びをしながら作っていた物語に対応している。「馬に乗った妖精の女王が森を守る」としたエルサに対して、アナはありったけの人形を抱きしめながら、とびきりの笑顔で「みんなみんな結婚!」というハッピーエンドを用意するのだ。
先述の通り、オラフがブラフマーであるのなら、ブラフマーを生んだエルサはヴィシュヌであるということになるわけだが、このヴィシュヌ、事あるごとに神の「化身」として、元の神とは異なる存在として生まれて来るようだ。10ある化身のうち最後のひとつが「カルキ」と呼ばれるキャラクターで、人々が堕落して、いよいよどうしようもなくなった末世に、世界を救うために白馬に跨って現れるらしい。エルサが無色透明だった水の精霊をわざわざ白っぽく氷結させるシーンが差し挟まれているのは、彼女こそがカルキであることの証明に他ならないだろう。カルキの別名は「汚物を破壊する者」。私がたびたびゲロだのウンコだのと言わなければならなかったのはそのためである。かっこいいのか悪いのかわからないな。
さて、アナの考案した結末にも、「言葉の王」は等しく実現の道筋を与えている。先に述べた、人を純粋に「考え方」としてみなす方法をとる限り、死が葬り去られるのと同時に、誰とでも恋愛し放題! だって実体がないから! ということになる。レイとカイロ・レンに密かな恋心を抱かせるもよし、スサノオとオモヒカネを若いゲイカップルに仕立てるのもよし、最大の宿敵にして忘れ得ぬ想い人に変えるもよし。いや、嫌がってもそれがリカバリーガールの個性だからね。知的な人って好みじゃない?
ここで再び〈魂の双子〉説に戻ってみたい。〈魂の双子〉、俗に言う「ソウルメイト」は、やがて転生するはずのルチアたちをおびき寄せるために、かつてのブラフマーたちが流布した迷信だけれども、しかし私は一人の経験者として、この話を信じたくなってしまう気持ちがとてもよくわかるのだ。その後何年も嫌な出来事が続いてきたので忘れかけてしまっているが、私とスサノオの間には確かに、奇妙な偶然の一致があった。相手が喋るたび、まるで目の前の人物が自分の考えを代弁しているような、他にはない鋭い衝撃が走って、頭が真っ白になってしまう。また逆に、自分がリアルタイムで展開されていく彼の思考を、知らず知らずのうちに何年も先取りして記していたこともあった。
考えていることが見えない以上、他人からはわからない。けれども当事者からすると、常軌を逸した出来事の連続だった。けれども「考え方」を一旦「形あるもの」と仮定してしまうと、〈魂の双子〉は不思議ではなくなる。自分たちの考え方に、おそろしくよく似た部分があった。その程度が前例のないほど甚だしかったので、ただただ驚くより他になかったのである。
自分たちが似てしまった原因はいくつか考えられる。
- 教育環境…教育に関わった親族の職業・関心事といったバックグラウンドが共通していること。
- 経験の質…共に職業として美術を選択したこと。また、作品を「平面」や「立体」といったカテゴリーに限定させず、素材が多岐にわたっている点も共通している。
- 自身に課したルール…おそらく我々は、少ないルールに忠実であろうとして生きてきたに違いない。例えば、「可能な限りラディカルに考える」、「大勢が採用しているメジャーな意見でも、自分で一から考えて納得できない限り、取り入れない」など。
他には、罹りやすい病気や怒り方、気分が乗ってきたときの言葉選びや声の出し方、走り書きしたときの筆跡など、体質も少々似ているところがあるように感じられたものの、相手は何しろ、日本の美術家・美術批評家の中でもひときわ難解とされるスサノオである。いずれにしても、3が共通していなければ、いくら1と2に共通点があったところで、考えが一致するまでには至らなかっただろう。
同時に、正反対だと思われる点も数え切れないほどあった。それぞれが展開させる話題の切り口が、いつも逆から逆へと流れていくような感覚だ。そのせいで、本質的ではない意見のすれ違いや、不必要な対立が幾度も生じることになった。一致している点が多いだけに、都度神経を逆撫でされるような思いだった。そして観察を続けるうち、私はこの違いを「2.経験の質」の差として理解するようになる。要するに、「男」と「女」では期待される性質や役割が真逆であるため、物事に対して正反対とも言えるアプローチをとるようになったのではないかということだ。
であるとすれば、私はこの〈魂の双子〉というアイディアを安んじて受け入れることはできなくなってくる。ご存知の通り、私は現在の性役割に満足してはいない。同じなのに正反対の魂を持ち、対照的な運命が定められているとされる〈魂の双子〉が「男と女」である限り、むしろそんな人間たちが生じてはならないと悟ったのだ。事実、この「迷信」が語る通り、未成熟ではあるものの、組織の中心人物である男性とよく似た気質を持った女性である私は、どのような努力をしてみても、常に組織の蚊帳の外で、からっきし受け入れられることがなかったのである。
このように私は、ルチアたちの想いや特殊な体験が実際にあったことまでも否定してはいない。ただやり方がまずかったし、彼らとは逆に、今後私のような経験をする女の子が出てほしくないと思っているだけだ。
実は他にも〈魂の双子〉と思しき男女を知っている。『ゾンビランド:ダブルタップ』に出てきたのは彼らだった。男性の見た目は白髪混じりの髪にメガネ、常に柄シャツ(ただし具象画)を着ていて、とてもよく喋る。女性の見た目はこざっぱりとしていて、化粧っ気がなく、スカートを履いているところは見たことがない。彼女の方が私より美人で、私のようなマヌケ面をせず、顔色一つ変えないので神秘的だと思うが、他に類例を見ないほど、突き抜けて愛想が悪かった。何度も食事で同席したのに、自己紹介はおろか、他の誰に対しても一瞥することさえない。てっきりコミュニケーションがとれない病気なんだと思っていたから、後日立派な職業に就いていることを知ってびっくりしてしまった。面白い文章を書くとは思うものの、彼らが我々に比べて限定的な力しか持ちえないのは、彼らが「他者のため」を思って活動していないからだろう。「神の国」に多くの力が集まるのは、誰かが誰かの苦しみを取り除き、想いを叶えたいと願ってきたからだ。他者への想像力が働かないのであれば、この力の仕組みを理解し、使いこなすことは不可能である。
こんなふうにフィクションよりフィクションみたいな出来事が起きることがあるから、あまり信じてもらえないかもしれないけれど、それにしても一つずつ順を追っていけば、どこかでそうした出来事が起こる原因を説明することも不可能ではないと思っている。今ここで一気に語るのは無理にしても、一つヒントをあげておくとしたら、強固な「考え方」は想像以上に大きな影響力を持ち、私たちの生活のすべてを左右しているだろうということだ。
「みんなみんな結婚」。それでいい。ラブストーリーもあり。ただし、登場人物のモデルは三人以上いるし、性別は固定しちゃダメだ。ひとまずこれを意識することで、文化と倫理観と作品と、モデルになる人々の人生が救われる。
冒頭で引用した『愛なき森で叫べ』は、この後間も無く殺されることになるジェイの発言に反し、「映画である」。シンとジェイが映画作家であり、映画を作っている最中であったことを忘れてはならない。物語半ばに設置されたこの仕掛けに気付くことさえできれば、作品を中間から二分割し、後半の地獄絵図の意味を「あくまでも映画である」と見て、ぐるりと反転させることができるのだ。またこう読む限り、実際の事件を元にしたこの映画が、同じく実際の事件を題材にしつつ、事実とは異なるハッピーエンドを用意した『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』と類似した試みを行っていたことにもなるのである。ここにあるのは、映画による救済。画面の凄惨さに反してピースフルなメッセージを受け取った私は、嬉しくなって、ときめきながら観てしまった。この読み方の正しさを裏付けるように、『愛なき森で叫べ』の英語タイトルは『THE FOREST OF LOVE(愛の森)』となっている。オラフはハッピーエンドが好きなのだ。
話を仕掛けるのは語り部オラフばかりではない。あれは2017年初頭だったか、私もまたいつか、「考え」と「考え方」の違いについての話をしたいと書いたことがあった。その伏線が今ここで回収された。その時点で「天国」までは射程に入れていた、というわけだ。パタリロの説明に「暴走」という言葉を使ったら、それが流行ってしまったけれど、私は意外と首尾一貫しているのですよ。
良い志を持つことのできた人が、失うことなくそれを保ち続けていられますように。私はそれがとても貴重で、素晴らしいことだと思うから。それではまた。