親とか旦那とかに対して、
毎度同じパターンで腹が立つ事ってあるのだ。もう、それをされると、毎度悲しくて、理解されなかったとか、ひどいことされたとか、悲しかったとか、そういう過去の心の傷までうずいて、
なんで、この人はいつもこうなのだろう。今度こそ許せないとか思ったりして、
ふと、私は、気づいた…。相手に、私が気に入るような態度を取れというのが、そもそもの間違いなのではないかと。
相手は私を傷つける意図などなく、
これは、私の受け取り方、受け止め方の問題かもしれないと。
そこで、もう絶交だ、今度こそ許せんと思っていた気持ちを脇に置いてみて、
ヤコブの手紙の、
愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。
人の怒りは、神の義を実現するものではありません。
ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。
というのを思い浮かべ、
怒りを脇に置く、つまり、今は怒らずに、怒りを遅くしているうちに、怒りを忘れてしまい、この御言葉の意味が、本当にわかった気がした。
人の怒りは正確ではないという意味では、
私はこの御言葉をわかっていたけど、
素直にこの御言葉を受け入れ、その通りにすることで、私達は救われるのだと…
聖書には、柔和という言葉がたくさん出てきて、例えば、シラ書には、こうある。
子よ、何事をなすにも柔和であれ。 そうすれば、施しをする人にもまして愛される。
シラ 3:17
私は柔和である事は、
神様に好ましく思われる事なのだと理解しているのだけど、だから、怒らずに過ごす事って大事だなと改めて思ったのですよね。
怒ることがあっても、
罪を犯してはなりません。
日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。
悪魔にすきを与えてはなりません。
エフェソの信徒への手紙 4:26-27