『二度と行きたくはないけど、かけがえのない時間だった。後悔はしてない』

17歳、高校3年生になった今、高校受験のために通った進学塾を振り返る。



私は中学2年の夏休みから、塾に通いだした。もちろん、高校受験のためだ。あまり行きたくはなかったが、期末テストの数学の点数が、母の設定した目標に1点足りなかったのだ。



私が入ったのは、とある有名な進学塾。
まず、入塾テストがあって、そこで一部は振り落とされる。2ヶ月に1回の公開テストでは、塾内での偏差値55以上の生徒は、ランキング形式で名前を貼り出される。
クラス分けや席順も、公開テストの偏差値で決まる。左か前に座っている子は、自分より偏差値が低くて、右か後ろに座っている子は、自分より偏差値が高い。授業始めの小テストでは、偏差値が高い順に点数を言って、先生に記録してもらう。そして、それに先生ごコメントする。合格点に満たないと、単語の書き取りなどをしないといけない。
他にも色々あったが、長くなるのでここで割愛する。

とにかく、徹底的に偏差値に拘るスタイル。受験合格に向けて、一直線だった。中学生という影響されやすい年頃の私たちは、すぐに塾に染まっていった。



その塾に通う子たちは、中学校でも、ある種の団結をしていた。それは『共犯者的な団結』だった。塾は、いつもムカつく上から目線な先生達に、反抗するための大義名分だったから。中学校において、先生に反抗することは、社会のルールを犯すことと同じような意味を持っていた。

その塾に通う生徒vs先生。

その塾に通う生徒というのは、ひいては塾の先生であり、塾そのものであり、その塾に通わせる保護者だった。

「中学校の授業は分かり難くて、受ける価値がない。塾の授業は分かり易いから、これだけ真剣にやればいい」

こう言って、憚らない子もいた。
実際、私も含めて、同じ塾に通う多くの子は、塾の宿題や小テストの勉強を中学校の授業中にやっていた。半年前に習ったことを、今更難易度の低い授業で習っても意味がない、そう思った。私たちは反抗的な笑みを交わしながら、こそこそと宿題を片付けた。これは、『無駄な時間の有効活用』だった。



賢い子はみんな、私と同じ塾に通っていた。一部の子たちは、塾名を言うだけで、私たちを尊敬する。

「へえ!賢いなあ。私やったら絶対入ることすらできひんわ」



私たちの特徴として、重度の偏差値コンプレックスがあった。これは、マシにはなったものの、今の私にも残っている。自分より偏差値が上のクラスの子には、それとなくへりくだるような、そんな風潮があった。逆に、中学校の『勉強する気もないくせに、僻んでくるアホども』のことは、心の中で軽蔑していた。



私たちにとって、通っている塾はブランドだった。多くの塾生にとって、塾は辛いものではあったが、同時に胸に誇りを沸き立たせてくるものでもあった。それは、中学生らしい脆いプライドを補強してくれた。



塾では定期テストの過去問が配られるのだが、重大なことが発覚した。一部の副教科の先生は、定期テストの問題を使い回していたのだ。これによって、私たちは満点やほぼ満点を取れた。私たちは、なおさら先生を軽蔑した。
しかしある時、それに嫉妬したらしい誰かの密告により、過去問のことが先生たちに伝わった。そして、過去問の使い回しは無くなってしまった。だが、一部の問題のみは同じものが出題されることもあったので、やはり塾生は有利だった。



そういえば、中2の冬に合唱コンクールがあった。その時期になると、塾では「中学3年生」の扱いを受けるようになる。そのため、それまでと比べると忙しくなってきていた。合唱コンクールでは、クラスごとに合唱の上手さを競う。こんなイベントがあると、クラスの数人が謎のやる気を出して、放課後にみんなで練習しよう、などと提案してくるのだ。
私も含め、一部の塾生は「そんな暇はない」と思っていた。やりたい人が残って自主練習する流れに持っていきたかった。しかし、生憎、世間(クラスメイト)は優等生になることを選んだ。私たちは、不平を垂れながらやる気のない声を出していた。私は苛々するあまり、楽譜を小さくちぎって、折り鶴を折る遊びを始めていた。こういう小さな反抗には、なんとも言い難い喜びがあった。
今思えば、私はかなり子どもだった。でも、私はそんな思春期らしい反骨心が大好きだから、あの頃の自分を可愛らしいと思う。でも、それを当時の自分に言えば、物凄い顔で睨みつけた後に、未来の自分が大人に近づいたことを呪うに違いない。だから、ここに書くにとどめておく。許して。



中3の夏期講習で、中学でやるべき勉強が全て終わった。秋からは、公立受験に向けて過去問の攻略に勤しんだ。大阪ではここ数年、受験のシステムがよく変わっていた。
もともと数学が苦手だった私は、絶望的な点数を取った。国語は「もう勉強しなくていい」と塾の先生に言われるほどになっていた。小さい頃からの読書習慣のおかげだろう。英語は、自由作文を書くこと、長文を素早く読むこと、長いリスニングで集中力を保つことに慣れてきていた。理科は物理が苦手だったが、他でカバーすると決めた。難易度共通だから、あまり難しいものは出ないだろうと踏んだのだ。社会は、1、2年生の復習をざっとしておいた。歴史は、塾で配られた細かい年表をひたすら覚えた。



私は、夏期講習あたりから、やる気が出ないのを感じていた。体もだるかった。夏期講習の特訓以降、肩と首が痛かった。塾の宿題すら厄介で、学校の宿題に関しては、評定5が確定したのを良いことに、提出していなかった。友人は、私の不真面目な態度に驚いていた。
この原因は、高校に入ってから分かった。この時、受験勉強にかかりっきりだったことは、後の私に大きな影響を与えることになる。



2学期のとある日、担任の先生が塾の話をしだした。先生が言うには、私が通っている塾は、夏期講習に20万円も取っているというのだ。おかしい。前期後期合わせて10万に達していなかったはずだ。同じ塾の誰かが、そんなに高くはないと抗議したが、先生は保護者から聞いたと言った。明らかな嘘で、胸糞が悪かった。
さらに進路相談で、担任の先生に「受からないから、その志望校はやめたほうがいい」と言われた。私は、塾の模擬試験ではいつもA判定が出ていると反論した。すると先生が塾名を聞いてきたので、素直に答えた。先生はそれは信用できないの一点張りだった。過去のデータから見ても、私が合格することは難しいらしい。そして、私が全く想定していなかったような高校の名前を、おすすめの志望校として挙げた。
何故こんなに否定されるのか、思い当たる節はあった。先生の息子は、ちょうど私と同じくらいの年だった。その息子は、私が通っている塾の元ライバル塾に通っていたのだ。ふたつの塾は仲が悪いことで有名で、裁判沙汰になったことすらある。元ライバル塾のことは、後で詳しく書くことにする。



冬が近づき、受験生たちは本格的に進路を決めた。この頃になると、私たち塾生とそれ以外の間にある溝は、更に深まっていった。途中で離反した元塾生の一部は、塾のネガティブキャンペーンをしていた。でも、所詮少数派だった。
私立単願勢がいつまでたっても煩いのを、私たちは先生に訴えた。だが、ああいう「自覚のない迷惑行為」は、先生の軽い注意でどうにかなるものではなかった。



私と何人かの受験生は、休み時間も勉強するようになった。私はいつも一緒にいる友人たちにさえ、少し冷たかった。「遊ぼー!」と声をかけてくる彼女らに、私は投げやりな態度で「勉強してるから無理」と決めた答えた。そのくらい、余裕がなかったのだ。



冬季講習が終わると、私立受験は1ヶ月後までに迫っていた。私立の過去問では、行きたい学科の合格最低点を超えていたから、私は主に公立に向けて勉強した。私立受験はあまりプレッシャーではなかった。



私は、同じ私立を受ける友人たちと出願書類を出しに行ったが、何度かトラブルに見舞われた。まず、友人が駅の階段で切符を落とした。これはすぐに見つかった。次に、バスの中で別の友人の出願書類を開けてみたところ、不備があるのが見つかった。担任の先生のミスだった。
彼女はとても真面目な性格だった。もう少しで泣き出すかと思われた。私は彼女と塾で一番仲が良かったし、その子がどれだけ努力家かを知っていた。私には到底できないくらい、コツコツと勉強をしてきた子だった。

「出願書類に不備があると、出願できないかもしれない」

中学校の先生たちが、幾たびも繰り返した言葉だった。それなのに、先生がミスするなんて!
その先生は体育担当の男性で、プールの授業で見学の女子が多かった時に「殺す」と言ったこともある。プールの着替え中に、更衣室の扉を開けると脅し、扉の磨りガラスに顔を近づけた。授業を見にきた時に、中学1の英文法が分からなくて、へらへら笑ってごまかしていたこともあった。
要するに、もともと心象が最悪だったわけだ。私は怒り狂って、悪態をつきまくった。先生によっても、受験に熱心な人とそうでない人がいるのは知っていたが、まさか足を引っ張る人がいるとは……。

私たちは私立高校に着いてから、公衆電話を借りて彼に電話した。彼は軽くごめんごめんと言った。私はまた、悪態をついた。電話代は、書類に不備があった友人が払った。この数十円でさえ、勿体無く思われた。
やっぱり、中学校の先生は無能だ。みんなでそう言い合った。
出願受付の人に聞くと、その不備なら、あとで封筒で正しいものを送ればいい、ということだった。私たちは心底ホッとした。もし彼女が出願できなかったら、私がその先生に文句を言いに行っていたかもしれない。
出願し終わった後、学校から出るときに、また別の友人が階段から滑り落ちた。怪我はなかったが、何もないところでコケて滑り落ちたものだから、みんな爆笑した。高校の事務員さんが見ていたので、コケた本人は少し恥ずかしそうだった。だが、その犠牲のおかげで、楽しい雰囲気で帰ることができた。



私立は、無事に行きたい学科に合格した。特筆すべきことはなかった。強いて言えば、受験人数が多かったため、帰りに友人を見つけるのが大変だったくらいだ。



私立受験が終わり、いよいよ公立受験が近づいてきた。塾の先生の目は、睡眠不足で赤く充血していた。塾の授業が終わっても、かなり多くの塾生が居残るようになった。



公立の出願書類は、私立と比べて大変だった。自己アピールの文章を書かないといけなかったからだ。私たちは塾でそれを推敲してもらっていた。後々考えると、中学校の先生たちは、卒業文集の簡単な文法的誤りさえ、いくつも訂正し損ねていたため、頼んで本当に良かった。
中学校でも、出願書類を書く時間はあった。私がそれを書いていると、斜め前の席だった幼馴染が、担任の先生に廊下に呼び出された。帰ってきた彼は、いつもの無表情な顔と比べて、少し暗いように思われた。どうしたのか私が聞くと、彼は答えた。

「僕の実力テストの点数やったら、志望校受からへんって。変えるべきやって言われた」

彼は私とは違う塾だったが、とても賢かった。小学生の時から、志望校にとあるトップ校を設定していた。とても勉強家で、秀才タイプだった。模試でも安定してA判定を出していることは知っていた。

「そんなん、気にすることないって。先生は元ヤンで真面目に高校受験してないし、教師になってから初めての中3担当や。本人もそう言ってたやん。それに、うちの中学校は賢いから、大阪の平均的な点数なんて気にしたらあかん」

私は必死で説得した。彼は悩んでいる様子だった。普段は自信満々で、傲慢なところすらある彼だったが、プレッシャーで自信をなくしたのかもしれなかった。
結局、彼は志望校をワンランク下の高校に変えた。私には、それを伝える彼の口調の平坦さが辛かった。出願直前だったが、彼は新しい志望校に合わせて出願書類を書き直した。私は、プライドの高い彼をクラス全員の前で廊下に呼び出し、志望校に受からないなんて言った、担任の先生を恨んだ。



ある日、小学校から仲の良かった男友達が、塾に別の塾のチラシを持ってきた。前述の元ライバル塾だ。仮にA塾と名付ける。そして、みんなが居残っている中で、彼はA塾のチラシのことを話題に出した。
A塾は、私たちが通う塾が大きくなる前に、進学塾として名を轟かせていたところだった。しかし、今では合格者数の発表もなくなっていた。私たちの塾には、元A塾に通っていた子がたくさんいた。A塾の『落ちぶれよう』は、元A塾生が集まると定番の話題として語られた。

「なあなあ、A塾がこんなチラシ出してるで!」

この一言で、多くの子が彼の周りにワラワラと集まった。A塾のチラシは、ネットでありがちな、詐欺みたいな通信講座の広告に似ていた。彼はその広告のおかしな部分を、馬鹿にした口調で読み上げた。私たちは、それを聞いて爆笑した。A塾の元塾生が、自分がA塾にいた頃の面白い話を語った。私たちは、さらに爆笑した。こんな塾じゃ、みんな辞めていくのも当然だ、口々にそう言った。

しかし、家に帰ってから、私は少し悲しい気持ちになっていた。彼は何かを貶めて笑うような人ではなかったはず。彼は家庭環境が恵まれておらず、いつもお腹が空いたと言っていた。服も年中薄着で、冬でもジャケットの下は長袖一枚だった。でも、優しさは人一倍持っていた。彼は何故こうなったんだろう……?



公立の受験日は3月の初めだった。
カンニング対策は、私立受験の時より厳しかった。そして、一限めの数学は過去問と比べてもかなり難しかった。噂によれば、他の受験会場では泣き出した子もいたらしい。しかし、私は落ち着いていた。もう焦っても仕方がなかったから。泣いても笑っても、これが最後だったから。
全ての教科を終えた時、私は受かったと思った。同じ中学校のみんなで答え合わせをしながら、私は帰った。



合格発表の日、私は出願書類に不備があった例の友人とともに、会場に向かった。受験番号が書いてある掲示板の布が取られても、私と友人は動けないでいた。私たち以外の人の群れが一気に前に押し寄せる。彼らがいろいろな叫び声を上げた時、ようやく我に帰って私たちは走り出した。しかし、後ろの方にいたため、目の悪い私は掲示板の数字が読めなかった。友達が「あるで!受かってる!」と叫んだ。私は志望校に合格した。

合格発表の直後に、担任に合格したと電話した。その時の驚いた声を聞いて、私はスカっとした。私が「スカッとジャパン」にエピソードを送れと言われたら、これを送るだろう。そう、この受験すら、先生への反抗のひとつだったから。



『辛い受験勉強を乗り越え、我々は勝利した!
能力は低いくせに、目線だけは高い教師どもに!!』



受験発表後、日を改めて塾で行われた祝賀会では、こんな雰囲気が漂っていたように思う。私や別の塾の友人のように、中学校の先生に合格の可能性を否定された子はたくさんいたためだ。『してやったり』だった。
私たちは『戦友』だった。受験勉強という大きな波を、励まし合いながら乗り越えたのだ。そして、共に中学校の先生たちと戦ったのだ。

「結局中学校の先生なんて……。塾の先生の方がよっぽど……」

そうやって、いつもの話題で盛り上がった。
私たちは塾の先生たちにサインを貰った。先生たちは、新しい高校生活に向けてエールを送った。私たちは笑顔で塾を後にした。もうここに来ることはないと思うと、感慨深かった。



『先生たちへ

大変お世話になりました。

私たちは、先生たちのお陰で、この高みまで来ることができたのです。

本当に感謝しています。

ありがとうざいました、そして、サヨウナラ』