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それでも俺は生きている

昨年末、末期の腎盂尿道癌になり、27歳で教会から離れてからの時間を後悔、治療が暗礁に乗り上げ、これからどう暮らしていくか模索中の癌患者です。

自分のまわりに、「所在不明高齢者」いると思う?ブログネタ:自分のまわりに、「所在不明高齢者」いると思う? 参加中



いないね。

「引っ越しました、知りませんでしたぬかせば田舎はつつぬけ。」


昔は嫌だったが悪くない。

ちなみに新しい家が出来た頃悪いことした子供や喫煙中学生叱りました。


なんか私一人だったから怖いおじさんというあだ名付けられていました。

実は自然保護ボランティアでその事実知りました。

狭い田舎はあまりないだろうね。

65年前8月9日、B29のパイロットと乗組員は、イージーミスで自分達の祈りの対象めがけリトルボーイという人工のサタンを教会めがけ投下した。
B29の乗組員は自分達の行いに瞬時に発狂して、パイロットは恐ろしさに耐えながら基地へ戻った。

戦争は、政治の為に差別意識を植え付ける。

そうやって人類は悪魔になり、最期人工のサタンを産んだ。

世界がやっと核兵器廃絶を叫び始めた。
これは新しい戦略だ。

65年前に開発した人工のサタンは廃絶できない。
これが現実だ。


戦略で核兵器廃絶を叫ぶ者達は、次の戦争を見据えるが、核兵器廃絶を叫ぶ人達は自己満足だ。


私は被爆者の訴えをたくさん聞いた、辛い辛い無念。
これは知るべきだ。
聞け
泣け
脅えろ

そしてこの兵器が使えない世界を模索するんだ。


戦争出来ない世界は、攻撃の無力化と三すくみの世界。

私は、戦争が欲望と差別が産むことも知っている。


クリスチャンだから全ての人がクリスチャンになり主を待ち望みたい。

それが私自身の平和の祈りだ。
日本は日ソ不可侵条約なんて信じていた。
しかし関東軍は民衆を捨てスピーディーに逃げた。
当時の日本の天国満州が地獄になったのは1945年8月8日65年前の今日だ。

明治維新の中で、会津戦争ほど悲惨な戦いもなく、その憎しみを利用して、新政府は会津残党を組織して田原坂で警視庁抜刀隊を編成、薩軍と激しい切り合いをさせた。

大東亞開戦前、海軍はアメリカと長期戦になれば負けるから、開戦に反対し、開戦後もアメリカとの停戦を何度も仕掛けた。
事実陸軍(政府)の傲慢が日本を戦争一色にした。
以前も書いたが、私は会津がどういういきさつから幕府と最期までともにしたか知ってから会津フリークになった。
会津松平始祖は、徳川家光の腹違いの弟だった。
その生涯は徳川への忠義一本だった。
藩律に徳川への忠義を書いたのも、子孫から家来,民を滅ぼされたくない一心からだった。
会津藩は、尊皇攘夷の勢いを潰せないことを知っていた。徳川を護るためにも、長州攻めに反対だった。
何度もお断りしているうちに、幕府はどうせ滅びる、協力しない会津から滅ぼすという脅迫文がきた。
負けることを知りながら、無理矢理戦って生き残るか死ぬ道をえらばされた会津松平。
会津松平に大日本帝国海軍、政府の妄想に振り回された国の守護。
人を民を大切にしない未熟な価値観。
最悪のなかで、先を見通しもがけるものを小ばかにし、滅ぼす傲慢さ。
毎年非武装に近い状態で犠牲になった民に兵士を思う。

ソ連進攻 会津戦争の共通項


いつか無くさないといけない。



やはり神に再教育されるしかないのだろうか。