作家の芥川龍之介の残した言葉に

運命は偶然よりも必然である。


『運命は性格の中にある』という言葉は決して等閑(とうかん)に生まれたものではない


というのがあります(芥川龍之介『侏儒(しゅじゅ)の言葉』)。


確かに性格によって運命が左右される場合も少なくありません。


上司から注意を受けた場合でも善意に受けとめる人と、反抗的な気持ちで受けとめる人とでは、


おのずからその将来は異なっていくでしょう。


奈良の薬師寺管主(かんす)であった高田好胤(こういん)氏は講演の中で


不平不満という毒を消してくれる薬が、喜びと感謝の心である。


この喜びと感謝の心を養うことが幸せへの道である」と語っています。


感謝と喜び、つまり心の持ち方に人生を築く「力」のあることを教えられます。





     「今日一日 明るく朗らかにしようと想う」

     「今日一日 謙虚にしようと想う」

     「今日一日 素直になろうと想う」

     「今日一日 感謝しようと想う」


ヾ(*'-'*)ヾ(*^o^*)ヾ(*'-'*)

   ありがとう♪ありがとう♪ありがとう♪


私は、健康と自然の摂理には深い関係があると思います。


自然の摂理とか、自然のルールからはずれたときに、人は病気になっているように思います。


逆に言えば、病気の人は、自然の摂理やルールからはずれた行為をしているとも言えると思います。


私たちは、長い間、人間が作り上げた文明社会の中で生きているので、自然の摂理やルールがどういうものか、


忘れてしまっているように思います。


或いは、自然の摂理やルールと人間社会の約束事(社会常識など)とをごちゃまぜにしているか、


よりベーシックなのはどっちであるかを勘違いするようになっているように思います。


では、自然、自然の摂理・ルールとは、一体どんなことでしょうか。


皆さんは、どう思いますか?


私が感じる自然の摂理のイメージは、こんな感じです。


あるがまま

こだわらない

好き嫌いがない

善し悪しがない

無駄な競争がない

仲が良い

共生


などなど...。


このイメージを、例えば、あなたが持っている元気で長生きのお年寄りのイメージと重ねてみてください。


元気で長生きというのは、一つの健康の証と言いますか、健康であることの結果ではないかと思います。


そのイメージと自然の摂理のイメージとは似てるとは思いませんか。


ところが、この自然の摂理やルールというのは、人間の都合とは必ずしも合致しないと言えるように思います。


なぜなら、人間の都合のイメージを思い起こしてみてください。


例えば、私の「人間の都合」のイメージは、


計画的

時間を守る(或いは、守らない)

自分の権利・利益を主張或いは確保

約束を守る(或いは、守らない)

打算

こだわる


などなど...。


これは、自然のイメージと並べてみると、どうでしょうか。


もちろん、皆さん自身のイメージで良いと思います。


私たちは、一人ひとりが持っている自然のイメージと、現実の自分の行動がなるべく一致するように


心がけることで、それこそ自然に健康を手に入れられるのではないか、そんな感じがします。


結局、自然の摂理・状態とは、思っていることと、やっていることが同じであること、のような気がします。


これも、「健康とは何か?」と同じく、言葉や現象の定義ではなくて日々感じる実感です。


皆さんはどう思われますか?




     「今日一日 明るく朗らかにしようと想う」

     「今日一日 謙虚にしようと想う」

     「今日一日 素直になろうと想う」

     「今日一日 感謝しようと想う」



ヾ(*'-'*)ヾ(*^o^*)ヾ(*'-'*) 

   ありがとう♪ありがとう♪ありがとう♪



なぜ めぐり逢うのかを

私たちは なにも知らない

いつ めぐり逢うのかを

私たちは いつも知らない

どこにいたの 生きてきたの

遠い空の下 ふたつの物語


縦の糸はあなた 横の糸は私

織りなす布は いつか誰かを

暖めうるかもしれない

なぜ 生きてゆくのかを

迷った日の跡の ささくれ

夢追いかけ走って

ころんだ日の跡の ささくれ

こんな糸が なんになるの

心許(モト)なくて ふるえてた嵐の中


縦の糸はあなた 横の糸は私

織りなす布は いつか誰かの

傷をかばうかもしれない

縦の糸はあなた 横の糸は私

逢うべき糸に 出逢えることを

人は 仕合わせと呼びます