タイトルをそのままにブログ内容を若干変更。
それに伴なって過去記事を削除しました。
ここで現在の私の立場とブログ内容について
当ブログでは私と私を取巻くエホバの証人との個人的な日常や問題、
またエホバの証人とものみの塔に関する疑問などを思いのままに書いています。
完全なエホバの証人反対派ブログでも擁護派ブログでもありません。
ですので、双方の方から見て好ましくない文章が含まれ書かれている場合もあります。
ブログ内容に関する事や、私個人に関することでのご意見等、
メールやコメ欄で自由に発言していただいて構いません。
しかし私はマメな方ではありませんし、ブログでの繋がりややり取りよりも
現実社会で直接関わりのある事柄や人、日常の生活を優先しています。
メールへのお返事は時間をみて極力させていただけるよう努力しますが、
コメント欄へのお返事は期待しないでください。
まぁ、簡単に言うとこのブログは個人的な日記です。見て色々言うのは自由だけど
気に入らなことが書いてあっても知らないよ。面倒だしリアル優先だから逐一返事もしませんよ。
でも込み入った話や貴重なご意見にはちゃんと答えたいので
メールには頑張って返事するからね!ってことです(^▽^)b
◆・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・◆
若い人が尋ねる〔第2巻〕37章 p304-310バプテスマを受けるべきだろうかという質問に対する答えとして、
バプテスマによって救いに至ることができるという考えは正しいとされています。
現役の証人の方、元エホバの証人の方、ある程度研究を重ねた研究生の方などは
よくご存知であると思いますが、ここで書かれているバプテスマとは
エホバの証人として、その組織の取り決めに従って行われる(エホバの証人式)バプテスマです。
他で受けた洗礼、バプテスマは含まれません。心から神への献身を誓い事実生涯を神に捧げたとしてもです。
何故なら、エホバの証人は自分達だけが神に是認された神の唯一の組織であり、
他の宗教は神教や仏教、ユダヤやヒンドゥーはもちろんのこと、
プロテスタントもカトリックも全て偽りの宗教であり、
サタンの側の組織であると考えているからです。
では これらを踏まえたうえで、ここで書かれているように
バプテスマによって救いに至るためにはどうしたらよいのでしょうか。
エホバの証人のバプテスマを受けるしかないのではありませんか?
ちなみにエホバの証人のバプテスマを受けるには他の宗教と同様に
ものみの塔聖書冊子協会という協会の信徒、エホバの証人となる必要があります。
救いに至るめにはエホバの証人にならなければならない。
つまりエホバの証人しか救いに至ることはできないということにはならないでしょうか?
これに関しものみの塔聖書冊子協会は、
よくある質問 「エホバの証人について」の記事で
エホバの証人は自分たちだけが救われると考えていますか。という質問に対してこう答えています。
そうは考えていません。過去の時代に生きていた,エホバの証人ではなかった多くの人たちにも, 救いの機会が差し伸べられます。聖書は,神の約束された新しい世で 「義者と不義者との復活がある」と述べています。(使徒 24:15) また,今は神に仕えていない人も,仕えるようになるなら,救われる見込みがあります。 いずれにしても,だれが救われるかを決めるのはわたしたちではありません。 それはイエスにゆだねられていることです。―ヨハネ 5:22,27。 |
そうは考えていません。過去の時代に生きていた,エホバの証人ではなかった多くの人たちにも, 救いの機会が差し伸べられます。聖書は,神の約束された新しい世で 「義者と不義者との復活がある」と述べています。(使徒 24:15) また,今は神に仕えていない人も,仕えるようになるなら,救われる見込みがあります。 いずれにしても,だれが救われるかを決めるのはわたしたちではありません。 それはイエスにゆだねられていることです。―ヨハネ 5:22,27。 |
上記2つの囲み文は同じ内容のものですが、気になった部分の文字色を変えて強調し、
対比させてもう一度読んでみました。これはいったいどのように捉えたらよいのでしょう?
私には、
「エホバの証人だけが救われるとは考えていませんが、
エホバの証人にならなければ救われる見込みはないですよ。」と言ってるように思えます。だとするとそこには矛盾が生じると思うのですがどうなのでしょう?
書かれている事柄の意図を汲み取れていないのでしょうか。
それとも私の読み取り方が偏っている??
聖書よりも、私にはものみの塔の出版物が難解です(^△^;)