弧個幻現(ここげんげん)9巻
十三、皆が死ぬその事件から半年が過ぎた。犯人と間違えられて、この頃は凶悪犯の顔なのかと塞ぎ込み、今までは見なかった鏡をしげしげとぽつねんと見入る安吾の姿が小雪とサヤカの目に留まるようになった。二人はそれを避けていた。それもそのはずで、大きな声で呼び止められ、「私はそんなに悪い顔では無いでしょう、中学の頃は、安吾君、寂しげな顔がジェイムズ・ディーンに似ているわね女生徒によく言われたものですよ」と何度も念を押し頬笑んで見せる安吾が気色悪いからである。その安吾が手鏡に映る二人を見つけ振り向こうとした瞬間、サヤカと小雪は庭へ飛び出し銀杏の木の下で互いに顔を見合わせ、呆れた顔をして、くすくすと笑い出す始末である。安吾は一人リビングに残され、もう一つの本当の恐れ「人間は死ぬ」、この問いを小雪にぶつけることは出来なかった。最も単純明快な普遍的な事実、「誰でも死ぬ」、消える、人生朝露の如し、浮かんでは消える川の泡の如し。そのような言葉は他人事として、裏を返せば「飛行機の墜落事故が起きても自分だけは大丈夫だ」と乗り込む能天気な客の戯言である。祖父は確かに中一の時死に、この地上の誰もが見つけることは出来ない、消えた。交通事故で日々消えてゆく人々、死ぬなんて考えても無かっただろう。それでも結局は誰もが、私も小雪もサヤカも死ぬ。「雌鳥は卵が次の卵を作るための手段に過ぎない」と或る学者が言って退けた。人間は次の赤ん坊を次のDNAを作る手段に過ぎない。より多くの♀と交尾してより多くの赤ん坊を生むことだ、少なくともその子は環境と状況に於て進化はしている。だがそれでも死ぬことは免れない。それでも皆は日々を喜怒哀楽中でも楽しく過ごしている。小雪に、「君もいつかは死ぬのだ」と告げたら彼女の幸せは粉微塵に砕け散ってしまうだろうか。至福浄土教会の会長・山田妙作はマホメットや釈迦や孔子やノストラダムスの霊を呼び出して会話をする。山田妙作の霊は誰に取り付くのだろうか。それでも火葬にされて灰となる、観世音菩薩の化身は優れたスーツを着たビジネスマンだ、一族郎党のイベント、出版、インターネット……、マルチな商売人だ、宗教ほど甘くて素敵な金を儲ける商売は無い。それでも私に「人は死ぬ」との呪縛を断ち切ってくれたなら身を粉にして至福浄土教会のために尽くしただろう。その答えは「そんなバカなことを考えていると、無間地獄へ落ちるぞ」との恐喝であった、その一喝にうな垂れる信者が哀れだった。人間は死ぬ、地獄も天国も私にとっては「人間は死なない」という解答にはならない。或る区の信者が亡くなった、葬式は教会が仕切り、お布施は全て教会へのお布施となって吸い上げられる。浄土へ行く者に現世など、遺族など慮る暇はない、執着して成仏出来ないからだ。葬式宗教のいい見本だ、スーツを着た幹部と紫の衣を纏った坊主だけが肥え太る。扱き使って眠りこけさせて考えることをさせないのが、救いなのなら、彼らは正しい。どんなに過去に反論しようとどうもがこうとその過去を変えることが出来ないように、「それでも人は死ぬ」、安吾は中一以来怯え続けている。鏡に映った自分、それは虚像であり何かしら「死」を垣間見る道具のようで手鏡を抱いたままソファで眠り込んでしまった。「コラ、コラコラ、凶悪犯の人相の安吾、安吾、起きろ、起きろ、フワフワだぞ」「人が気にしている事をよく口に出来ますね、無神経だ、凶悪犯を掴まえて、凶悪犯にされそうになったんです、傷付くのが当然ではないですか」と安吾はぷりぷり怒り出した。「安吾、素直になれ、『死』が怖いか、小便ちびるか、お前はいみじくも求道者だぞ」「なぜ死ぬのですか」「お前はな、故郷を思い出しているだけだ、ホームシックにかかっているだけだ、異郷に来て、故郷を思い出さぬ奴は息を引き取ろうが死ねない、なぜ故郷である『死』が怖い、雨が降りその一滴が山に降り地に染みて川に交わり流れとなり海に注ぎ水蒸気となって天に昇り再び雨の一滴となって地に出会う大地をこの地球を潤している、ではその一滴はいつ何処で死んだ、鳥を見ろ、彼らは死も生きるも知らない、だが囀りを忘れない、安吾が見た鳥はいつ死んだ」「人間だけには不幸にも意識が有ります、だから死が怖いのです」「どうして死んだ事の無いお前が死を怖いものだと確信できる訳を聞かしてくれ、見せてくれ、死は幽霊か、安吾、笑って死を迎える人々も一杯在るのだぞ。安吾、人間だけは意識が有る、それは正解だ、だが死を恐れるのはその根底に深く刻まれた聖なる傷の記憶ためだ、君は人間の出産のシーンを見たことが有るか、その母親のお腹にお前は戻り赤ちゃんになる、深く息を吸って大洋から生まれた川へ帰巣する魚となり深く深く眠り母親の子宮へ遡及する、母のリズムが波がハンモックを揺らす、君は透き通る肌をして眠りと目覚めの境も無い水の中で穏やかに呼吸する至福の胎児になっている」安吾は眠りの中の更なる眠りの奥の懐へ抱かれる。全てが和んでいた、その全てには内も外も遅速もあれもこれも私もあなたも無かった、全てが幸福に満ちていた。その無窮が揺らぎ収縮弛緩を繰り返す毎に暗いどろどろとした感触が締め付けマグマとなった暗赤色の血が煮え滾り凄まじい叫びを全てが一斉に上げた、最早見えざる全てが全てを圧縮し窒息させようと唸り呻き声を上げ闇が咆哮する、見えなかった、聞こえなかった、叫べなかった、無力が降りてきて、阿鼻叫喚の震えが四方八方に打ち当たり撥ね返されて雷鳴となり谺する、それでも容赦なく押し潰す力だけが見えざる一切が全てが伸し掛かった、何処からかもがき苦しむ悲痛な怒りと憎しみの膿が染み込んでくる、腐爛臭が充満し、全てを八つ裂きにしてばりばり貪り喰う全てが暴発する、蚕の繭の中で怒り憎しみ殺し破壊する小さな繭が蚯蚓が蠢いている、それを同じ怒り憎しみ殺し破壊する全てを包む全てが牙を剥き互いの血が煮え滾って行く、殺せ、殺せと刃を向ければ、お前こそ死ねと見えざる大きな手が首をぐいぐい締め上げる。怯えの粘膜の中で力なく横たわり闇が腐臭が血がせせら笑う。全てが憎しみで怯えであった。ぷつんと切れた……闇は崩れ落ち温もりがあった、死に損なった赤ん坊の泣き叫ぶ声が温もりを突き抜ける。汗だくとなった安吾が叫びを上げて首を振り跳ね起きた。人を貪り喰う殺人鬼の圧倒的な己が本性を唖然となって反芻していた、親を呪い親に呪われた赤ん坊、安吾が無縁と思い込んでいた人殺しの怒りと憎悪が渦巻いていた、殺生を禁ずる己の信仰を前にして己が已に宗教を冒涜していたとの自覚の暗雲が立ち込めて今までの一切合切を打ち壊す雷が脳天を直撃した。再び怯えと行き場の無い無明の闇が安吾を呑み込んでゆく、アスファルト上に投げ捨てられたアイスクリームが蕩ける、闇に溶けて行く自分を触感が味わっていた。すると漆黒の闇に見えるはずの無い影が動く。「母親を喰え、お前を喰え、人間を喰え」と影が揺らぐ。「それは出来ません、それは出来ません」「お前はそのような人間としてこの世に生を受けたのだ、どうしてが腐った人間の亡き骸が累々と横たわる上に在ながら蓮の華の台(うてな)の上でお前一人が安穏と胡座がかける」安吾は頭を抱え屠られる羊の目をして地べたを転げ回る、精神が千切れる苦しみに涙さえ出ない、絶望さえ見つけられなかった。救い難い哀れな人間の畜生が転げ回っていた。「どうした安吾、なぜ観音様は現れぬ、なぜ南無観世音菩薩南無観世音菩薩と唱名しない、なぜ縋らない」安吾は苦しみ悶え痛みの極みで失神した。「お前の頭では無理かな。お前は一生そのままかも知れないな、まあ、一寸の虫にも五分の魂、人は生まれに非らず、育ちに非らず、その行いにあり、仏の言葉だ、そのくらいのことは知っているはずだぞ。残念な事に、お前にはサヤカや小雪のような第六感は眠ったままだ、きっとこの世とサヨナラするまで目覚めないに違いない。死ぬのにも一生恐れ続けるだろう。坊主としての位は下の下だ。だがそんなものよりもっと大事なものが有る、それが分かるか、言ってみろ」「そんな事まで分かりません」「そうだな、お前の頭で答える全てをボクは否定しようと折角待ち構えていたのに肩透かしだな。いいか、お前はカンボジアに行って、下水道や道路や家を戦火で未だに立ち遅れた地域の村で彼等と共に歩こうと発心し、その準備に金も知識も貯えている、そしてお前はそこへ行く。お前は苦しむ、その現実に苦しむ、死に怯える、空腹に泣く、だがそれでもお前は一所懸命になる、動き回る、汗を流す、だがその落ちた汗の跡には井戸が、下水道が、家が出来上がる、そこには人が住み畑に作物が実り日々の糧が実る。お前はバカだが真っすぐだ、大きな山が在れば回り道をすればいいものをそこに鶴嘴を奮ってトンネルを掘って進んでゆく、傍から見れば間抜けに映る、だがな……」ソファに眠る安吾の右手から鏡が落ちて、目を覚ますと、いつもの家の、いつものリビングに、いつものソファにテーブルにテレビに家具が有った、それから足元に転がる鏡を拾い、テーブルの上に置いた。茫漠模糊とした夢現の中で、安吾は夢を反芻していた。だが思い起こそうと言葉にしようとすると、するりと思考の網を潜り抜けて行ってしまい、苛立って来る、自分の馬鹿をつくづく思い知り涙が零れてしまいそうになる。すると外から梵鐘の如くに声が聞こえた。「安吾、安吾、安吾のクソッタレ、外に出ろ、アホウな頭は捨てちまえ、クソッタレの安吾、外に出ろ、外に出ろ、外に出ろ……」安吾は素足のままで大声を張り上げながら外に飛び出した。銀杏の大木の根元に小雪とサヤカが安吾を見て笑っていた。銀杏の木の枝々の葉が黄色に染まり、日を受けて金色に輝き、風に戦ぎ波打ち、美しい波紋が四方へ八方へ広がり、蒼穹は澄み渡り、鳥は囀り天翔けて、小さな一木一草が潤い緑を滴らせ山が遊ぶ。小雪とサヤカが在た。それを見る安吾が在た。全てが有り難かった、全てが尊かった。「安吾は間抜けよね、靴も履かないで、百メートル走、何を考えているのかしら、小雪」「変人、奇人はどこにでも在るわよ」「小雪、変人とか、奇人とか言っては駄目よ、凶悪犯を思い出させるわよ」とサヤカが安吾を目配せして、小雪の耳元で呟いた。その時、空を仰ぐ安吾の耳がぴくりと動いて、銀杏の木の下に立つ二人にゆっくり近づいて行った。二人は妙に落ち着いた安吾の醸し出すムードに何が起こるかしらと気が気でなく鼓動が激しくなる。サヤカは小雪の腕を揺する。「だから言ったでしょう、安吾は今神経過敏なのよ、参ったな」「何よ、もう遅いわよ、噛付きはしないわよ、理性は有るのだから」「分かるものですか、普段は優しい人が切れると、一番恐ろしいと言うでしょう」「来たわよ、サヤカ、黙って、普通の顔、普通の顔」安吾は二人の真正面に立ちはだかり、大きく深呼吸をして、サヤカ、小雪と見詰め、にんまり笑った。「私はね、大きな山があったらツルハシでそこにトンネルを掘って進むんだ。でも私はそれでいいんだよ、私が望んだことをするのだからね。柳は緑、花は紅(くれない)、蘇東波の詩の一節です、笑いましょう、羊は丘の上、魚は水の中、今日は実にいい天気です、私はこれから益々勉強します、井戸・下水道・家屋・道、マスターしなけれならないならない事が一杯有ります、少年老い易く、学なり難し、サヤカ、勉学に共に励みましょう」と安吾は堂々と踵を返し家の中に引き上げた。小雪とサヤカは暫く呆気に取られ、顔を見合わせると腹を抱えて笑った。「勉学に共に励みましょう、今時、若者がそんな事言うかなあ」「間違ってはないわよ」「何よ、小雪だって笑っているじゃないの、小雪、共に励みましょう、時代を間違えてんじゃないの、遅く生まれ過ぎたのね。プッツンしたね、安吾は」「跳んじゃったね」二人は寂しげに空を見詰めた。そして安吾が語ったカンボジアの僧侶の話を思い出していた。僧侶はポル・ポト政権下での迫害を逃れて生き延びた。僧侶の或る仲間は宗教を捨てずに虐殺され、又或る者は女性と無理矢理に関係を持たされ、僧侶を離れざる得なかった。だが、もっと安吾を震えさせたのは、テレビに映ったその僧侶の言明であった。「確かに、僧侶はポル・ポトに目の敵にされ、虐殺されました。しかし、あの頃は全ての国民が農民が強制労働を課され、村から町から在なくなったのです。お布施でしか生きてはならぬ僧侶は、もしポル・ポトの政権がもっと続いていたならば、餓死するしかなかったのです。私は運よくベトナムで生き延びたのです。ですから、今は貧しいこの村で僧侶として、村を豊かにしなければならないのです、それが又村人に支えられて生きる僧侶の唯一の道です、田や畑に作物が実り、子供達は教育を受けられるようになり、この国を栄えさせるのです、それが戦火で亡くなった全ての人々への僧侶の私の一生のただ一つの祈りであり、一生のただ一つの誓いです」安吾の語るカンボジアの僧侶が安吾に何千キロもの時空を超えて、語り掛けた、それは優しさであり、何よりも力を秘めたものであり、千言万語の美辞麗句、絵に描いた理想論で国民を不幸に陥れたポル・ポトを遥かに凌駕するものであり、一人一人を包んでも尚尽きない人間の慈しみの顕現であった。少なくとも安吾はそれを感じ、受け入れ、自分のものとした。だからこそ、カンボジアへ行く決意をしたのである、そしてそこの土となる覚悟を決めた。十四、大いなるもの二年後、安吾はカンボジア語を覚え、土木技師となり、二級建築士の資格、重機の免許も取り、成田国際空港の待合室でカンボジア行きの飛行機を待っている。サヤカも小雪も並んでソファーに坐っている。サヤカは目を腫らし泣きっぱなしである。悲しいと思った。だが、自分を救ってくれたようにカンボジアの援助を必要とする人々の所へ行くのだと頭では笑って見送るはずだった。やはり、悲しかった。小雪とサヤカが発起人となり、カンボジア友の会というNGOを設立し、小雪の父の会社のイメージアップにとサポートさせて、金銭面での支援の目処を立て、その初の派遣員を安吾とした。安吾は実用書以外の物は何一つ持って行かないことにした。仏教の経典さえも古本屋に持って行き金に換えた。村の人々と歩むことが、黙々と歩むことが、安吾の求めるものである。お経も頭に残ったものだけでよかった、それが自分に与えられた分相応である、それに頭の悪い自分が経典を理解し尽くそうと思ったことが浅はかに思えた。それさえも、忘れていいと思っている。『私は用水路や家や道路を立てる、その技術を共に働く人々に伝える、それ以外のことは、村の人々がする』安吾は突然閃いた。この世に菩薩は居ない。だが一人残さず人間を救うまで仏にはなりませぬ誓願した菩薩の、人民救済の心が有るのみだと。安吾にとってそれはカンボジア復興の道であった。すると「死・死・死」と騒いでいた心が、そんなものどうでもいいかのように、気にならなくなっていた。それは満天に輝く星々だけが生きていて、それを浮かべる闇の空は死と呼ぶようなものだろう、それは間違いだ。輝く星も、広がる闇も一体の宇宙なのである、生は輝いているのか、闇なのか、どうでもいい、今、生きている、もしかしたら、死んでいると考えることもできる。生死は宇宙のようなものなのだと天空を安吾は仰ぎ見た。そこに慈悲があればいい。しんみりと別れの憂いに身を浸している三人の席の後ろから「こゆきさーん、こゆきさーん」と当たりをはばからぬどら声が、空港ロビーのざわめきを消し去り、恥ずかしさに小雪とサヤカが凍り付いた。「いやいやいや、野暮用が有りましてね、奇遇ですな、小雪さん、安吾君もカンボジアですか、いい事です、海外雄飛、日本男児はこうでなくては行けません、いややいやいや、ご立派」と苦笑いした安吾の手を取り力強い握手を交わしながら、有りったけの力を出して締め付けて力を鼓舞しようするのだが、逆に締め付けられて照れ笑いをする人麻呂刑事であった。それを見た藤原が笑うと睨み返して頭を小突いた。「サヤカ、隣に寄ってくれない、ボクは小雪さんと大人のお話しが有るの、藤原、気が利かんな、サヤカが寂しがる」サヤカは安吾の隣に席を移ってその隣に藤原が坐った。「人麻呂の奴、私を子供扱いにして、あれで恋する本能が有るのが不思議だわ」「以前相手にしていたのが、暴力団ですから、優しそうで綺麗な人に弱いんです、仕方ないですよ、今までまともに素人の女性でお話してくれたのは小雪さんだけなんですから、キビシイですよ。高校の同級生の女性に二十万円貸して、とんずらされても一晩泣いて自棄酒呑んでそれで終わりですからね。女性に優しいのは私より田中刑事の方ですよ」「そう、藤原さんはどうなんですか、持てるんでしょう、ちょっと聞かして下さいよ」とサヤカが悪戯っぽく笑う。女殺しの藤原と署でその異名を取ったのは結婚詐欺師の容疑で捕らえた三十五歳の黛美和子を自白させたことに因ってであった。人麻呂刑事が三日四日と脅し賺し宥めても平然とタバコを燻らして、或る時は顔を近付けてうっとりと彼の顔を見詰めて頬笑むのである、だが一言も口は聞かない。黙秘である。それに金を巻き上げられた二十一から六十八歳までの被害者の男達は怨みを抱いてはいなかった。いい思いをさせて貰ったのだから、飲み屋に一年通ったと想えば帳尻は合うなどと言う者まで在る始末である。どうしても自白が欲しかった。黙秘の美和子が心の中で甘く囁きかけて、『もし外であなたにお会いしていたら、あなたの貯金も月々のお給料まで、私に貢いでいるわよ、藤原さん』と勝ち誇ったように人麻呂警部の鼻先まで顔近づけてウインクしているように思えた。「女はウナギの化け猫だと」と吠えてととうとう六日目に人麻呂警部は藤原お前が遣ってみろと匙を投げた。藤原は美和子に向かって坐ると、静かに映画の話をした、チャップリンの「街の灯り」「ローマの休日」「ある愛の詩」「私は純愛物が好きなんです、『失楽園』など見る気もしないいんです」次は漫画の話で「タッチ」「アラレちゃん」「銀河鉄道999」と延々と二時間も淀みなく楽しそうに話し、自分の世界に入り込んで行く。「絵は綺麗な方が好きです、メーテルに本当に恋してしまって困りました、本当に美しいと思いましたよ、この世に無い美しさです、漫画だからですよね、それに私は姉のお陰でキティーちゃんの筆箱を持たされてね、仲間によくからかわれました」人麻呂は調書のデスクに坐り、美和子に背を向けてうんざりしながら本題に一向に入る気配を見せぬ藤原のバカの長話を聞いていると腹が立ってきて貧乏揺すりをして、藤原のバカを蹴飛ばして首を締めて落としてやりたくなってきた。所がヒョウタンから駒が出た。あの百戦錬磨の詐欺師の美和子がうな垂れて泣き出したのだ。「私も世間話をしたかったのです、たわいもない話をして泣いて笑って過ごしたかったんです。所が誰も私に振り向かなかった。或る時同僚に言われたんです、大人になってオママゴトでは男は付いてこないわよ、全てアレから男は始まるのよ。捨てられて傷付いているばかりの私は変わったわ。この男は私の一晩に幾ら使うかしら見下して付き合うと入れ食い状態で引っ掛かった、でも餌は一つ色仕掛け、それしか選べないのよ。幼稚園の弁当の日のキティーちゃんのピンクの弁当箱を思い出したら、抑えていたものが込み上げて涙がぽろぽろ出て来るの」「誰でも魔が差すことはありますよ」と藤原は優しい声で告げる。人麻呂は美和子の急変に驚いた、今泣いているのは弱くて今にも崩れそうな哀れな同情すべき女だったからである。「そしたら、藤原さん、署内に触れ回って、今では少年課の課長さんも手の付けられない女の子だと頼みに来るんですよ」「いいじゃない、持てないよりは。人麻呂では私だって口を利かないわよ、あの顔ではね、小雪さんはマムシに愛されたカナリヤ、恐ろしいカップルだわ」「サヤカ、人麻呂さんはいい人だよ、口を開けた仁王の凄みの有るいい顔立ちだよ、嘘の吐けないいい人だ」「安吾はもしかしてホ・モ、仁王さん、あんなにカッコよくないわ、ビール腹のお不動さんよ」「どうして悪い言葉ばかり覚えてくるんだ、ビール腹とかスケとかヒモとか、今にブスになるぞ」「だって辞典に載ってなくて、フレッシュなんです」「お嬢様が物珍しさにタコ焼きを人前で食べるようなもので、可愛いものですよ、安吾さん」「お嬢様ね、聞いたか、サヤカ」「女あしらいが巧い人は女心を擽るように叱るものなのよ、安吾のようにどこかの親父みたいにダサクはないのよ」人麻呂はウーロン茶を二つ買ってきて、一つを小雪に渡して、すぐに手にしたウーロン茶をがぶがぶ飲み干した、已にサヤカと安吾は人麻呂の管轄外の区域となっていた。「藤原、飲み物ぐらい買って来ないか、お前は気が利かないな、走れ、安吾君は異国の地に旅立つんだぞ、間抜け」藤原は済みませんと自販機の方へ駆けて行き、ほくそ笑んだ人麻呂刑事は小雪に見蕩れ、一人の世界で悦に入った。「小雪さん、心配せんで下さい、男手が無くなった小雪さんの家はわたくしは、田中人麻呂が不惜身命、粉骨砕身、守ります、今の世の中、若い女性の二人暮らしは悪党の標的です、しかし、心配しないで下さい」と小さな声で話す習慣の無い人麻呂の声は高らかに響く。『そう言うお前が一番怖いちゅうの』とサヤカは呟いた。藤原は足早に戻って来て、安吾、サヤカと缶ジュースを手渡して坐り、暇を楽しむ老人のように缶ジュースを啜る。「藤原さん、女のホシをどんな手管で落とすのよ」「何もしませんよ、お茶を出して世間話をするだけです」と藤原は気弱そうに笑う。「苛められっ子だったでしょう、藤原君」「いや、いつも番長クラスの生徒にだけは可愛がられていたから、誰も手出しはしないんだ。特にデートとなると私にこっそりと頼むんだよ、その時のために特別待遇されてね」「それは共生だな、イソギンチャクとクマノミのようなね、藤原君。強いお姉さんだけの家族の末っ子でしょう」「よく分かりましたね、強いもんて言うものじゃないですよ、ヤンキーの寸止めです、選んだ職業が長距離のトラックの運転手ですよ。なぜか私の家族は女が強かった、祖母・母・姉とね。私だけが男の子で上の三人には可愛がられ過ぎました。だから高校は無理して男子高に行ったんです」カンボジア行きの便の搭乗案内のアナウンスが流れ、安吾が小さな手荷物を片手に立ち上がると今まで笑っていたサヤカが安吾の胸に抱きついて声を上げて泣きだした。「安吾、安吾、安吾と別れたくないよ。安吾はいつも側に居てくれた、けして私を怒らなかった、自閉の私を見捨てなかった、本当はとてもとても寂しいんだ、安吾はいつでもどんな時でも私を守ってくれた、私には誰よりも優して強い安吾がいた、だから私は今の私になれたのよ、こんなに幸せになれた……どんなに感謝しているか、口では言えないけれど……有り難う御座いました」「サヤカ、私が助けたんじゃない、信仰を捨てそうになった時、サヤカが現れた、こんな私にでも縋がってくれる人が在ると思ったら救われた気がした、サヤカがいつも私の側に居て見守ってくれた、私の方がサヤカに救われたんだよ、私は強くなりたいと思った、でも優しい人は強くなれるけど、強いだけの人は優しくなれない、人と共には歩けない、サヤカは優しかった、そして強かったんだ、少なくとも至福浄土教会でも救えなかったこの弱い私を救ってくれた。感謝しているのは私の方だよ」「三塚安吾君、カンボジア雄飛を祝し、万歳三唱、バンザーイ、バンザーイ、バンザーイ」と鬼瓦が泣いていた。安吾が乗客ゲートに入り、見えなくなった。小雪とサヤカは飛び立つジャンボの機体が消えても、青空を仰いでいた。熱いものが一気に込み上げて、小雪もサヤカも、嬉しいの悲しいのか分からないが、涙が溢れ出た。