第12問:わたしは何故できるだけ多くの人から好かれたいと思うのか?
「好き」
「嫌い」
この一対の反意語ほど、人の気持ちをストレートに表す言葉は他にないでしょう。モノや人の評価や感想などを端的に表現したい時、また同様に他の人に評価や感想などを求める時、特に軽い気持ちで、二者択一的にこう迫ってしまうことが多いかと思います。
「好きですか、嫌いですか」
結構厳しい選択の場合もあります。
【体験】
公私共「好かれたい」と思った体験はありますが、状況の違いこそあれ、わたしの心の内は同じなので、社会人になった後の象徴的な例をご紹介します。
まだ若造だった頃、会社のお偉いさん方が若手の意見が聞きたいとのことで十数人が選ばれ、わたしもその内の1人として、外部の貸し研修所のような所に赴きました。会社の方向性議論が煮詰まり気味の時にアイデアを拾うため、多分幹部周辺の誰かの思い付きで集められたのだと思います。忙しい中で全くもって面倒なことだなと感じていました。
あるテーマが出され、4~5人ずつのグループに分かれ、自由に討議をしないさいと始められました。グループの中で自然と司会役みたいな人が出来、書記みたいな人が出来、議論はそれなりに進みました。1時間が経過し、何となくグループとしての方向性が固まりつつあった時、わたしはそれより少し視点の違うポイントを見つけ、それを加えないと結論の現実性が薄くなるように思いました。
しかし議論がまとまりつつあり、皆がやれやれと思っている中で改めてそのポイントを出すのが躊躇われました。この安堵感を崩し、皆から「あぁせっかくまとまりかけてたのに。面倒な奴だな」と思われたくない気持ちで一杯になり、結局言わず終いで結論が出ました。
各グループ毎の発表が行われ、わたしのグループの結論が披露された後、最後のグループが発表を行いました。その内容には見事に、わたしが言わず終いだったポイントが含まれていました。わたしのグループメンバーも「成る程ね」という感じで頷いていました。多分わたしが議論中にそのポイントを持ち出しても良かったのだと、その時気付きそして後悔しました。
このように、場の雰囲気を壊すようなことをせず、皆に好かれたままの状態でいたいと思うわたしなのでした。
【検証】
わたしは生来揉め事を好みません。人と意見をぶつけ合う、議論することを楽しむという、やや西洋的な考え方も仕事(ビジネス)では必要なことは分かっているつもりです。でもそれ以外でそんな状況に立ち向かうのは「嫌い」の一言です。
原因の1つには、わたしの育った環境にあるように思います。育った家族は核家族ながら子4人で総勢6人のちょっとした大家族でした。そんな中では、遊ぶ場所、勉強する場所、食事をする場所のどこでも譲り合いの精神が自然に身に付きました。譲り合いと言えば聞こえはいいですが、早い話初めから遠慮の仕合いなのです。まぁそこは家族なので、阿吽の呼吸でうまく行っていたということで、それはそれで良いでしょう。
しかし家族間以外でのプライベートでもこの性質はちょくちょく顔を出しました。どうもわたしには黙することが美であるというような意識があるようです。つまりは「意見を戦わせる」「反目する」「目立つ」ことを良しとしない性質なのです。雰囲気に馴染みたい、風景に溶け込みたい、そこに居るのが息苦しくないようにしていたい。損な役回りを演じたくないという意識が強いのです。
でも同時に「そこに居ることを必要とされている」ことも欲しているのです。まるで「空気」みたいな存在になろうとでもしているようです。居てもらわないと困る、でも特別目立つ必要も主張する必要もないよ。そんな存在。随分と消極的な「好かれたい」です。
しかしなんという身勝手な奴なんでしょう。自分で自分を検証していて、今迄で一番腹が立ちます。
もういやだぁ、考えたくなーい!
【結論】
わたしはきっと、一見善い人ぶった、ただの「ええかっこしい」なのです。いけすかない奴です。
きっと揉める気配があったら、スルッとその場から居なくなるのでしょう。
でも仕方ないです。もうこのスタイルでウン十年人間してきたんですから...
【追記】
「好き」「嫌い」の二者択一では、とても表現しきれない場合もたくさんあるものです。
でも「好き」にはほぼ1つの意味しかないのに対し、「嫌い」にはその前後関係、ニュアンスにより幅広い意味がありそうです。「本当に嫌い」から「好き」までの広い範囲で。
いつかこの「嫌い」を検証してみたいものです。
「嫌い」
この一対の反意語ほど、人の気持ちをストレートに表す言葉は他にないでしょう。モノや人の評価や感想などを端的に表現したい時、また同様に他の人に評価や感想などを求める時、特に軽い気持ちで、二者択一的にこう迫ってしまうことが多いかと思います。
「好きですか、嫌いですか」
結構厳しい選択の場合もあります。
【体験】
公私共「好かれたい」と思った体験はありますが、状況の違いこそあれ、わたしの心の内は同じなので、社会人になった後の象徴的な例をご紹介します。
まだ若造だった頃、会社のお偉いさん方が若手の意見が聞きたいとのことで十数人が選ばれ、わたしもその内の1人として、外部の貸し研修所のような所に赴きました。会社の方向性議論が煮詰まり気味の時にアイデアを拾うため、多分幹部周辺の誰かの思い付きで集められたのだと思います。忙しい中で全くもって面倒なことだなと感じていました。
あるテーマが出され、4~5人ずつのグループに分かれ、自由に討議をしないさいと始められました。グループの中で自然と司会役みたいな人が出来、書記みたいな人が出来、議論はそれなりに進みました。1時間が経過し、何となくグループとしての方向性が固まりつつあった時、わたしはそれより少し視点の違うポイントを見つけ、それを加えないと結論の現実性が薄くなるように思いました。
しかし議論がまとまりつつあり、皆がやれやれと思っている中で改めてそのポイントを出すのが躊躇われました。この安堵感を崩し、皆から「あぁせっかくまとまりかけてたのに。面倒な奴だな」と思われたくない気持ちで一杯になり、結局言わず終いで結論が出ました。
各グループ毎の発表が行われ、わたしのグループの結論が披露された後、最後のグループが発表を行いました。その内容には見事に、わたしが言わず終いだったポイントが含まれていました。わたしのグループメンバーも「成る程ね」という感じで頷いていました。多分わたしが議論中にそのポイントを持ち出しても良かったのだと、その時気付きそして後悔しました。
このように、場の雰囲気を壊すようなことをせず、皆に好かれたままの状態でいたいと思うわたしなのでした。
【検証】
わたしは生来揉め事を好みません。人と意見をぶつけ合う、議論することを楽しむという、やや西洋的な考え方も仕事(ビジネス)では必要なことは分かっているつもりです。でもそれ以外でそんな状況に立ち向かうのは「嫌い」の一言です。
原因の1つには、わたしの育った環境にあるように思います。育った家族は核家族ながら子4人で総勢6人のちょっとした大家族でした。そんな中では、遊ぶ場所、勉強する場所、食事をする場所のどこでも譲り合いの精神が自然に身に付きました。譲り合いと言えば聞こえはいいですが、早い話初めから遠慮の仕合いなのです。まぁそこは家族なので、阿吽の呼吸でうまく行っていたということで、それはそれで良いでしょう。
しかし家族間以外でのプライベートでもこの性質はちょくちょく顔を出しました。どうもわたしには黙することが美であるというような意識があるようです。つまりは「意見を戦わせる」「反目する」「目立つ」ことを良しとしない性質なのです。雰囲気に馴染みたい、風景に溶け込みたい、そこに居るのが息苦しくないようにしていたい。損な役回りを演じたくないという意識が強いのです。
でも同時に「そこに居ることを必要とされている」ことも欲しているのです。まるで「空気」みたいな存在になろうとでもしているようです。居てもらわないと困る、でも特別目立つ必要も主張する必要もないよ。そんな存在。随分と消極的な「好かれたい」です。
しかしなんという身勝手な奴なんでしょう。自分で自分を検証していて、今迄で一番腹が立ちます。
もういやだぁ、考えたくなーい!
【結論】
わたしはきっと、一見善い人ぶった、ただの「ええかっこしい」なのです。いけすかない奴です。
きっと揉める気配があったら、スルッとその場から居なくなるのでしょう。
でも仕方ないです。もうこのスタイルでウン十年人間してきたんですから...
【追記】
「好き」「嫌い」の二者択一では、とても表現しきれない場合もたくさんあるものです。
でも「好き」にはほぼ1つの意味しかないのに対し、「嫌い」にはその前後関係、ニュアンスにより幅広い意味がありそうです。「本当に嫌い」から「好き」までの広い範囲で。
いつかこの「嫌い」を検証してみたいものです。