昨日、上の息子が突然、
「ボク、モーツァルトの本を読まなければよかった」
と、心細そうに言ってきました。
その本と言うのはコレ↓
学校で借りてきた、マンガのモーツァルトの伝記ものです。彼は特にモーツァルト好きというわけではないのですが、このマンガの伝記シリーズは以前にも「徳川家康」とか「円谷英二」とかを借りてきていました。今回、モーツァルトについては、ドラマ「のだめカンタービレ」などで、何曲か出てきたので、それでたまたま名前を覚えていて借りてきたんでしょう。
それで本題。
最初は結構楽しんで読んでいたのに、どうして突然「読まなければよかった」なのか?
モーツァルトの絶筆「レクイエム」の作曲を依頼したナゾの人物が、マンガでは、死神のように描かれていて、その来訪とともに、モーツァルトに死が訪れた、という流れだったため、
「ボクのところに死神が来たらどうしよう・・・」
と、非常に怖がってしまったのです。
「死神はいつ来るの?」
と、聞いてきたり。。。
トイレに行くのも一人では怖いというし、(ちょっとうっとおしくて)困ってしまいました。
そういえば、私もその昔、「死」という概念がただただ怖くて、一人ぼっちの時ふっと思い出して、息子のように怯えていたことがありました。その時はどうしたかなぁ。
結局、そのままにしておくと、日常生活すら送れないので、息子にこう言いました。
「モーツァルトってどこの人?」
「オーストリアの人」
「オーストリアってどこ?」
「ヨーロッパ」
「そうだよ。死神さんは、ヨーロッパの人にしか、出てこないんだよ。日本人には出てこないから大丈夫!」
(日本にも、「死神」に似た概念の存在は何かしらあったと思うけど、ここは方便。。。)
こんな説得にいつまでダマされていてくれるか分からないけど、「死」を恐れていても仕方がないからね。私の好きな経営者の一人に、渡邉美樹さんがいるけれど、彼は「死」について面白い例えをしていた。以下、彼の著書「夢に日付を!」から引用。
「ここに砂時計のようなガラスの容器があります。その中には、砂ではなく1円玉が入っています。入っている一円玉の数が、あなたがこの世で生きるであろう日数です。
(中略)
この1円は、新しい1日への参加料として、毎日1枚ずつ下に落ちていきます。
この時計の中には、たった1枚だけ金色の1円玉が入っています。それが下に落ちた瞬間、そのほかの1円玉も一気に落ちてしまいます。この金色の1円玉は、いつ訪れるかわからない「死」です。」
金色の1円玉は、いつ落ちるか分からない。もしかしたら、明日かもしれないし、30年後なのかもしれない。
息子の「死神」への怯えを見て、久々に、時間の有限さ・尊さを思い出しました。何となく、ぼんやりと過ごしてしまうことが多い、最近の日々。気分はのほほんでも良いけれど、先のほうを見据えて、しっかりやっていかなくてはなぁと、ちょっと息子に叱咤された気分でした。









