最近、常々思うことは、自分が人並みに人を好きになることができない人間だということだ。
無論、人を好きになる努力はする。だけど、好きになれない。
仮にAという人間がいたとする。Aは自分に好意的だ。それに対して私も好意をいだく。だが、それだけだ。
自分は出会った人間、一人、一人に対して、人並み以上に考えてる自信はある。だけど、それが好意になることはない。いや、先日まで、私にとってはそれが好意であるつもりだった。だけど、その好意だと思ってたものに、違和感がずっと付き纏ってた。

…違和感は何だったのか

ふとしたときに、知り合いにかけた電話で分かった。

どのように愛されたり、好かれたりしてるかがわからないないのだ。

相手が好意をもってるかは分かる。だけど、例えば友人に、あるいは恋人、あるいは親にどのように愛されてるか、好かれてるかがわからないのだ。

そして、友人や親、恋人、それらが本当に自分を好きでいてくれてるのか、この結論に至るのだ。

自分が“好意”だと思ってたのは“疑惑”だった。
そんな、私が人を人並みに好きになることが、できる訳がなかったのだ。

マイケル・ジャクソンが亡くなって、どれくらい月日が経っただろうか。

生前、私は彼について特に関心、彼が死んで彼という人間の凄さがわかった気がする。

彼が死んでどれほどの月日が経っただろうか。

いまだに彼という人間が死んだということを世界中に惜しまれ、悲しまれ・・・

私は知らない。

彼以上に死んだときに悲しまれる人間を、現代人で知らない。

失礼ながら、オバマ大統領や管総理のような一国の政治のリーダー、あるいはトム・クルーズのようなハリウッドスター・・・彼等がなくなったとき、これほどまで長い間、世界中で悲しまれ続けるだろうか

彼の凄さを思い知る。

そして、ふと思う。その何百倍、何千倍、たった今でも世界中の人がその人のことを知ろうとする歴史上の偉人がどれだけ凄いかと。


・・・子供が「ワンピースで一番、強いのは誰だ」と考えるくらいのノリで、「世界で一番凄い人は誰だ」なんてことを考えてみる。


私の中で答えが出る。

イエス・キリスト

私は決してキリスト教の信者じゃないのだが、彼は凄い

まず何が凄いって、今まで信仰されてきた年月。コレはもう本当に凄い

そして、なんといっても彼という人間を信仰した人の数。

聖書は今まで60憶部も売れたそうな


死んだ偉人の凄さを、しみじみと思い知らされた今日この頃