【結婚生活における妥協というロマンについて】

「妥協」という言葉の響きが悪いけれど
結婚生活の妥協というのは
やってみると
案外、いい。

妥協にはふたつの種類がある。(もっとあるかもしれない)
妄想上の妥協と
実生活の妥協「譲り合い」とか「思いやり」である。

妄想的妥協というのはこういうの↓

「そういえば・・・プライベートジェットと
南フランスにお城とワイナリーをもっていて
ダニエル・クレイグみたいな顔をした男と結婚するはずだったのに
なんで薄い顔の日本人のサラリーマンと結婚しているのかしら?
変ねえ?? 」

変なのは、そんな妄想をしている本人の場合が多い。
こんな妄想上の妥協で人は本当に苦しんだりしない。
苦しんでいるとしたらアブナい。
多くの人は

(よく考えると、あたし英語できないし
 ダニエル・クレイグと会っても話すこともないわよね。
 家も3LDK以上だと掃除大変だし。
 ここでいっか)

なんていう身勝手な幸せに落ち着いているはずである。
というか、落ち着いて欲しい。

実生活の妥協というのは
夫に限らず
親と暮らしていても
子どもと暮らしていても
友達といても
つきまとうもの。
思いやりとか譲り合いと呼ぶ方が正しい。

たとえば、休日の朝。
「眠い。あと2時間寝たい・・・・。
 でも、彼がお腹を空かせたと言っているなあ。
 かわいそうだから起きてご飯を作ってあげよう。
 朝4時だけど」

とか(子どもが生まれると毎日こうなる)

「今日はロマンチックな映画にでも見に行きたいな」
と思っていても、マッチョな夫が張り切って
「今日は高尾山に登るぞ!」
と言い始める。
(そうか、彼は登山を楽しみにしているんだ。
 しようがない。つきあうか。
 彼は出張続きだし、
 休みの日くらい好きなことにつきあってあげよう)

みたいなもの。

その結果、多くの場合
「あ、良かった。彼、すごく楽しそう」
と自分も幸せになる(ならないこともある)。

「結婚生活が妥協」という台詞はかっこいい。
たぶん結婚したことに照れた誰かが
偽悪的に「妥協」という言葉を使い始めたんだと思う。

妥協には「諦める」というニュアンスがあるけれど
妥協したときに、がっかりして目をつぶるのではなく
ちゃんと開けておけば
新しい世界が見つかる。
新しいスキルかもしれないし
新しい趣味かもしれない。

「結婚した相手のためにちょっと譲る」
ことで、だれかの生活が自分の中にちょっと入ってくる。
お互いに相手の生活にちょっとずつ入り合い、
混じり合い
織物のように家族の絆が育まれて行く。
それが妥協の素顔だと思う。

ね、悪くないでしょ。

そんなわけで
妥協は怖くありません。
なんなら「思いやり」と言い換えて大丈夫ですd