僕が子供のころ、保育園に通っていた5歳くらいのころ

だったと思うが、

『水の旅人』という映画を見た。

母が、レンタルビデオ屋さんから借りて来てくれたの

だったか、テレビで放送されたのを録画したの

だったか覚えないが、

僕はこの映画がとても好きだった。

なんべんも見たと思うので、多分ビデオに録画してくれたのだ。

 


この映画がとても好きだったのだが、話の筋は覚えていない。

山﨑努が演じる、小さい、ビールの缶くらいの大きさの

おじいさんが出て来る。

じいさんは、なんだか汚い、ぼろの着物を着ていた。

もう一人、少年、6歳くらいだったか、そのくらいの男の子が

出て来る。

何かのきっかけで、おじいさんと少年は出会う。

じいさんが雨に降られている時に少年が傘の中に入れて

あげたかなんか、そういう出会いではなかったか。

じいさんが、フキか何か、葉っぱを傘にしていたような。

着物の裾をたくし上げていたような。

30年以上前に見ていた映画なので、

ほとんど覚えていない。

どんな様子だったか思い出そうとして

浮かんで来るものは、30年くらいかけて自分の中で

脚色したものかもしれない。

 


じいさんは少年の家へやって来る。

一緒にスーパーファミコンをやっていた。

じいさんは、小さいので、

ゲーム「ダンスダンスレボリューション」を

するような要領で、

スーファミのコントローラーの上に乗って、

足でボタンを押していた。

でもあれは、僕らなら左手で押す方向操作の十字キーと、

右手で押す緑、赤、黄色、青のボタンを同時に

操作しづらいから、

うまくゲームはプレー出来なかったのではなかったかな。

当時僕はファミコンは持っておらず、

同じ保育園のユウキくんの家に行った時か、

父方の祖父章じいちゃんの家に行った時とかしか

(章じいちゃんの家には任天堂の

ファミリーコンピューターがあった。

じいちゃんはカセットもたくさん持っていて、

麻雀のゲームをよくやっていた。)

ゲームは出来なかったので、

スーパーファミコンは憧れであった。

それを足で操作するじいさんの姿が印象的であった。

じいさんは、どこからやって来たのだろうか。

少年にとっては見慣れない格好であったろう。

たしかじいさんは、少年が知らないことを

いろいろ教えてくれていた。

薪割りをしていような。…これはないかな。

パンツでなくて褌をしめているのを

少年は初めて見た、というのがあったような。

なかったかもしれない。

少年とじいさんは友達になった。


 

…それで、これもよく覚えていないのだが、

雨が降る庭の様子が浮かぶ。この映画のシーン

だったかわからないけど、

庭の木の根元辺りだったか、その辺りを、

雨の中掘ったら、ヨレヨレのボール紙の箱が出て来て、

その中にちょっと大きめのビー玉がいくつも入っている、

というのを、なんだか覚えている。

他の映画のシーンと混同しているかもしれない。

あの箱のヨレヨレ具合、庭全体の湿り具合が

印象に残っている。

 


話の筋は覚えていないのだけど、

映画の最後(辺り)のシーン、川のシーンは

覚えている。

最後、じいさんが、一寸法師みたいな感じで

お椀かなんかに乗って、小川の上をやって来る。

川沿いには花が咲いていたような。

昔の貴族が被っているような、

なんて言うんあれ、ヴェールのようなの、

あれを手で上げると、じいさんは若返ったのか

なんなのか、

麗しの小さい、貴族のような人が出て来る。

(ヴェールは無かったかもしれない。)

服もボロではなく、たしか橙色、山吹色、のような色の

立派な装束になっている。

僕はそれをみて、たいへんよろこんだ。

じいさんは小川の精かなんか、神様かなんかだったのである。

 


たしか、少年が、だったか、小川の掃除をして、かなんかで、

汚れていた川がキレイになったら、

ぼろ着を着ていたじいさんが復活して、

「元の姿に戻った」と言うのか、

どちらかではなくどちらもじいさんの姿では

あるのかもしれないが、

「再生した」というような印象であった。

 


貴族のお兄さんになったじいさんは、

刀を差していたような気がする。

着ているもの、雰囲気は、貴族っぽいのだが、

武家のイメージがある。

(武家、のイメージがあるから、他の時代劇などからの影響で

薪割りをしていた気がするのだ。)

「水の旅人」の本当のタイトルは、

『侍KIDS 水の旅人』だったので、

侍キッズということは、やはり刀を差していたかも

しれない。


 

じいさん/貴族のお兄さんの出立ちは、

武家と、平安貴族のような、公家、の

どちらでもない印象がある。

じいさん/貴族のお兄さんの出立ち、

だけからでなく、

あの川のシーン全体から受ける印象、から浮かぶのは、

「あはれ」と「アッパレ」の二つの

言葉だ。

「アッパレ」は「あはれ」が変化した言葉らしいが、

川のシーンの感じは、

あはれ、と、アッパレの間みたいな、

晴れ晴れと、アッパレに近いのだが、

パーンとした感じがこう、ちょっとやわらかく、

あはれ…!というのに包まれている、

みたいな、そんな感じがする、と思った。

カタカナでなくてひらがなであっぱれ!

と言うのがいい気がする。

いいと言うか、より近い気がする。


 

僕の、脚色しているかもしれない川のシーンでは、

小川の畔に花、木に咲く花が咲いていたように思うが、

もしかしたらモミジ、木々が紅葉、黄葉している様子

だったかもしれない。

まあ、花びらか、紅葉した葉が舞っていたと思う。


 

あはれがアッパレになったのは

いわゆる中世、室町時代後期ごろのようなので、

僕の中での「あっぱれ」な感じは、

公家のような武家、みたいな、

じいさん/お兄さんの姿とも重なる。

何を元にした区分か僕はよく知らないが、

古代、中世、近世という分け方では、

日本では平安時代は古代、

江戸時代は近世、

ふたつの間の室町時代辺りは中世

ということになるらしい。

 

古代と近世、

時代の中間の所の川を舟で行く人、

みたいな感じ?というのが浮かぶ。

人ではないか。


 

小川のシーンで、もういっこ、僕は、

平安時代の貴族の歌詠みをする会が浮かんだ。

「曲水の宴」である。

(本当は無かったかもしれないという説があるようだが、)

「曲水の宴」では

流れて来る杯が自分の前を通り過ぎるまでに

歌を詠む、ということをしていたらしい。

その杯を流す川が浮かんだ。

そしてその杯に乗っているお兄さんが、

刀を差している。

時間が流れて、次の、武家の時代が来る、

みたいな…。

そういうイメージを重ねてあるのかもしれない、

と思った。

…その、大きい川でなくて小川、小さい流れというのが。

大きな川では歌会が出来ない。

杯を流しても、川下の人がキャッチ出来ない。

その小さい川を、自分たちの文化の様式の一部に取り入れる、

っていうのか、

川は勝手にと言うか自然に流れてるんだけど、

それをなんかパッケージする、みたいな感じ?なのか?

というようなことを考える。


 

僕のイメージでは、お歳暮だ。

僕の父方の祖母、キミばあちゃんは、街の、

「郷土のデパート」鶴屋に行くのが好きであった。

その、僕の子供のころの、この映画が作られたころ

でもあるかもしれない、そのころの、

鶴屋の包装に包まれた贈りもの、だったり、お歳暮の感じ。

あのパッケージ感て言うのか、フォーマルな感じて言うのか、

上品な感じと、わくわく感。

秋の、特設催事場、という感じ。


 

だけど人間の時代とかパッケージとかフォームとか関係なく、

川はきれいにしましょうね、

ごみとか捨てんでね、

みたいな、

大事にしましょうね、というような感じの、

そういうことを言いたいのではないか、あの映画は…、

と考える。メッセージとして。

あのじいさま、お兄さんは、

畏れを知らない、気にならない人間が

川をよごしても祟る感じはあんまり無い。

ユーモアを理解してくれる、

話を聴いてくれる人、と言うのか、

なんらかの存在、という感じだ。

川をよごす人間の、

そのよごれをその身に

引き受け、ぼろ着じいさまになるが、

文句をそれほど言うでもなく、

(文句は言っていたかもしれない、映画で。

 文句は言ってたんだったかな。

 よく覚えていない。山﨑努の顔的に

 いくらかは言ってそうだ。

文句と言うかボヤキ、のような。)

言っても祟ることはせず、

ボロ着なりに、それなりに毎日生活している、

そのじいさまが、川がきれいになって

リフレッシュすると貴族お兄さんになる、

というような、再生する、というような。


 

映画作った人たちがどんな意図で

作ったかはわからないが、

僕が受け取ったのは、

川はキレイにする、と言うか、

川にごみとか捨てちゃいかん、

ということであった。

 

 

上のようなことを、「水の旅人」のことを

思い出しながら考えたが、だいたい、

じいさまがお兄さんになったのは

川がキレイになったからだったか、

はっきり覚えていない。

たしかそうだったと思うけど、

僕の願望などを反映しているであろう脚色された

「水の旅人」なので、久しぶりに、30年ぶりに

『水の旅人  KIDS

を見てみたいような気持ちになった。


 

書き出してみながら映画のことを

思い出すと、あれはこういうことだったのかもしれない、

というのがいくつかあった。


 

精なのか神様なのか、

武家なのか公家なのか、

古代なのか近世なのか中世なのか、

あはれなのかアッパレなのかあっぱれなのか、

春なのか秋なのか、

自然なのか文化なのか、

野生なのか社会なのか、

「じいさま」なのか「お兄さん」なのか、

なんと呼んでいいかわからなくても、

感動する時は感動すればいいんじゃない、ということは、

5歳の自分には言う必要がない。

既に感動している。

多分感動という言葉も知らなかった。

 

なんなのかわからないから感動する、

ということもあるかもしれない。

 

感動しないんなら、感動しないでいいんじゃない、

と言う必要もない。

学ばないと出来ない感動、みたいなのに

ちょっと興味がある。

このごろ、ビールは、種類ごとにちょっとずつ味がちがう!

ていうのがわかって来た。

 

まあ、なんにせよ、感動したから

これほど心に残っているのだろう。

 


 (文字数が上限を越えたので2回に分けます。)