つらい別れ・・・
夕方5時すぎの帰り道。
笛をピーピー吹きながら帰る道すがら、どこからともなく流れてくる「黄色くてぽてぽてしたおうちカレー」の匂いのような郷愁に満ちた長い長い月日が流れました。
その間に笑いや涙が幾度流れたことでしょう。。。そう思うと無意識に目頭がキュッと熱くなります。
その笑いとは、雨の日も風の日も休まず町を散歩した往年のイマヌエル・カントのように規則正しく木曜日にカレーを食べ続けたこと。
その涙とは、イタリー部長との永久の別れでありました。
イタリー部長は先日U・DO・N県に去りました。
そのあまりにも突然の出来事に私たちは呆然とするしかありませんでした。
続く
笛をピーピー吹きながら帰る道すがら、どこからともなく流れてくる「黄色くてぽてぽてしたおうちカレー」の匂いのような郷愁に満ちた長い長い月日が流れました。
その間に笑いや涙が幾度流れたことでしょう。。。そう思うと無意識に目頭がキュッと熱くなります。
その笑いとは、雨の日も風の日も休まず町を散歩した往年のイマヌエル・カントのように規則正しく木曜日にカレーを食べ続けたこと。
その涙とは、イタリー部長との永久の別れでありました。
イタリー部長は先日U・DO・N県に去りました。
そのあまりにも突然の出来事に私たちは呆然とするしかありませんでした。
続く
煮込め!カレー!
ここ最近の活動を文藝色豊かに、極めて文藝色豊かに謳いあげました。
気分はほとんどホメロスです!
部長は激怒した。必ず、あの曖昧模糊な味の店を除かなければならぬと決意した。部長はカレーが作れぬ。部長の実家は、ハヤシライスの老舗である。肉を切り、玉ねぎを炒めて暮して来た。ゆえにルーこそ違えどカレーに対しては、人一倍に純情であった。
きょう未明部長は社を出発し、坂を越え角を曲がり、500メートルはなれた此の店にやって来た。部長にはイタリー部員という心の友がいた。このイタリーは、健康センターのカレー屋に、近々、遠征する事になっていた。出発は間近かなのである。部長は、それゆえ、壮行会を兼ねてはるばるこの店にやって来たのだ。先ず、情報を集め、大路をぶらぶら歩いた。
もう一人部長には竹馬の友があった。ポポンSである。今は此の市で、本屋をしている。その友を、これから訪ねてみるつもりなのだ。
久しく逢わなかったのだから、訪ねて行くのが楽しみである。歩いているうちに部長は、まちの様子を怪しく思った。ひっそりしている。フライングして、12時前だが、けれども、なんだか、そのせいばかりでは無く、店全体が、やけに寂しい。のんきな部長も、だんだん不安になって来た。路で逢った若い衆をつかまえて、何かあったのか、二年まえに此の店に来たときは、昼でも客が行列を作って、至極賑やかであった筈だが、と質問した。若い衆は、首を振って答えなかった。しばらく歩いて老爺に逢い、こんどはもっと、語勢を強くして質問した。老爺は答えなかった。部長は両手で老爺のからだをゆすぶって質問を重ねた。老爺は、あたりをはばかる低声で、わずか答えた。
「カレーが、スッパイのです。」
「なぜスッパイのだ。」
「隠し味が隠れていない、というのですが、誰もそんな、期待はしておりませぬ。」
「たくさんのケチャップを入れたのか。」
「はい、はじめはデルモンテを。それから、ハインツを。それから、カゴメ。」
「おどろいた。店主は乱心か。」
「いいえ、乱心ではございませぬ。人とは違ったことをしたい、というのです。このごろは、常連の舌をも、お疑いになり、少しく他の店で食事をした者には、人質ひとりずつ差し出すことを命じて居ります。御命令を拒めば唐辛子を目にかけられて、殺されます。きょうは、六人殺されました。」
聞いて、部長は激怒した。「呆れた店主だ。生かして置けぬ。」
部長は、単純な男であった。買い物を、背負ったままで、のそのそ店にはいって行った。たちまち彼は、捕縛された。調べられて、部長の懐中から風邪薬が出て来たので、騒ぎが大きくなってしまった。部長は、店の前に引き出された。
「この風邪薬で何をするつもりであったか。言え!」店主は静かに、けれども威厳を以て問いつめた。その顔は蒼白で、眉間の皺は、刻み込まれたように深かった。
「店を鳥インフルの手から救うのだ。」と部長は悪びれずに答えた。
「おまえがか?」店主は、憫笑した。「仕方の無いやつじゃ。おまえには、わしの味がわからぬ。」
「言うな!」と部長は、いきり立って反駁した。「カレーがスッパイのは、最も恥ずべき失敗だ。店主は、客の舌をさえ疑って居られる。」
「疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならない。人間は、もともと私慾のかたまりさ。信じては、ならぬ。」店主は落着いて呟き、ほっと溜息をついた。「わしだって、うまいカレーを望んでいるのだが。」
「なんの為の隠し味だ。隠れていないではないか。」こんどは部長が嘲笑した。「貴重な昼食時間がフイになった。何が隠し味だ。」
「だまれ、下賤の者。」店主は、さっと顔を挙げて報いた。「口では、どんなうまそうな事でも言える。わしには、人の腹綿の奥底が見え透いてならぬ。おまえだって、いまに、磔になってから、やっぱりスッパイのが好きと泣いて詫びたって聞かぬぞ。」
「ああ、店主は悧巧だ。自惚れているがよい。私は、ちゃんと炒める覚悟で居るのに。ケチャップなど決して使わない。ただ、――」と言いかけて、部長は足もとに視線を落し瞬時ためらい、「ただ、私に情をかけたいつもりなら、処刑までに三日間の日限を与えて下さい。たった一人のイタリーに、神保町の店に行かせてやりたいのです。三日のうちに、私は店でカレーを食べさせ、必ず、ここへ帰って来ます。」
「ばかな。」と店主は、嗄れた声で低く笑った。「とんでもない嘘を言うわい。逃がした小鳥が帰って来るというのか。」
「そうです。帰って来るのです。」部長は必死で言い張った。「私は約束を守ります。私を、三日間だけ許して下さい。イタリーが、私の帰りを待っているのだ。そんなに私を信じられないならば、よろしい、この市にポポンSという本屋がいます。私の無二の友人だ。あれを、人質としてここに置いて行こう。私が逃げてしまって、三日目の日暮まで、ここに帰って来なかったら、あの友人を煮込んで下さい。たのむ、煮込んで下さい。」
それを聞いて店主は、残虐な気持で、そっと北叟笑んだ。生意気なことを言うわい。どうせ帰って来ないにきまっている。この嘘つきに騙された振りして、放してやるのも面白い。そうして身代りの男を、三日目に煮込んでやるのも気味がいい。人は、これだから信じられぬと、わしは悲しい顔して、その身代りの男を煮込んでやるのだ。つるやの親仁にうんと見せつけてやりたいものさ。
「願いを、聞いた。その身代りを呼ぶがよい。三日目には日没までに帰って来い。おくれたら、その身代りを、きっと煮込むぞ。ちょっとおくれて来るがいい。おまえの罪は、永遠にゆるしてやろうぞ。」
「なに、何をおっしゃる。」
「はは。いのちが大事だったら、おくれて来い。おまえの心は、わかっているぞ。うまいカレーが食いたいのだ。」
部長は口惜しく、地団駄踏んだ。ものも言いたくなくなった。金も払いたくない。
ふと耳に、潺々、コップ音が聞えた。そっと頭をもたげ、息を呑んで耳をすました。すぐ足もとで、水が注がれているらしい。よろよろ起き上って、見るとスプーンの入ったコップが置かれているのである。そのコップに吸い込まれるように部長は身をかがめた。水を一くち飲んだ。ほうと長い溜息が出て、食欲が湧くような気がした。食べられる。行こう。肉体の疲労恢復と共に、わずかながら希望が生れた。義務遂行の希望である。わが身を殺して、名誉を守る希望である。閉店までには、まだ間がある。私を、待っている人があるのだ。少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。私は、信じられている。私の命なぞは、問題ではない。死んでお詫び、などと気のいい事は言って居られぬ。私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。走れ! 部長。
私は信頼されている。私は信頼されている。先刻の、あの悪魔の囁きは、あれは夢だ。悪い夢だ。忘れてしまえ。五臓が疲れているときは、ふいとあんな悪い夢を見るものだ。部長、おまえの恥ではない。
路行く人を押しのけ、跳ねとばし、部長は黒い風のように走った。つるやの行列のまっただ中を駈け抜け、待っている人たちを仰天させ、犬を蹴とばし、ガードレールを飛び越え、少しずつ沈んでゆく太陽の、十倍も早く走った。一団の弁当男子とさっとすれちがった瞬間、不吉な会話を小耳にはさんだ。「いまごろは、あの男も、煮込まれているよ。」ああ、その男、その男のために私は、いまこんなに走っているのだ。その男を煮込ませてはならない。急げ、部長。おくれてはならぬ。唐辛子とターメリックの力を、いまこそ知らせてやるがよい。ライスの硬さなんかは、どうでもいい。部長は、いまは、ほとんど全裸体にネクタイのみであった。呼吸も出来ず、二度、三度、口から血が噴き出た。
見える。はるか向うに小さく、店の看板が見える「おいしいカレー」。看板は、ところどころ切れている。
「ああ、部長。」うめくような声が、風と共に聞えた。
「誰だ。」部長は走りながら尋ねた。
「イーヨ・ターニでございます。貴方のお友達ポポンSの弟子でございます。」その若い本屋も、部長の後について走りながら叫んだ。「もう、駄目でございます。むだでございます。走るのは、やめて下さい。もう、あの方をお助けになることは出来ません。」
「いや、まだ陽は沈まぬ。」
「ちょうど今、あの方が鍋に掛けられるところです。ああ、あなたは遅かった。おうらみ申します。ほんの少し、もうちょっとでも、辛かったなら!」
「いや、まだ陽は沈まぬ。」部長は胸の張り裂ける思いで、赤く大きい夕陽ばかりを見つめていた。走るより他は無い。
「やめて下さい。走るのは、やめて下さい。いまはご自分のお命が大事です。あの方は、あなたを信じて居りました。厨房に引き出されても、平気でいました。店主が、さんざんあの方をからかっても、部長は来ます、とだけ答え、強い信念を持ちつづけている様子でございました。」
「それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。飯が固い、固くないは問題でないのだ。カツの油が切れていないのも問題でないのだ。玉ねぎは2時間は炒めてもらいたいのだ。ついて来い! イーヨ・ターニ。」
「待て。その人を煮込んではならぬ。部長が帰って来た。約束のとおり、いま、帰って来た。」と大声で厨房の群衆にむかって叫んだつもりであったが、喉がつぶれて嗄れた声が幽かに出たばかり、群衆は、ひとりとして彼の到着に気がつかない。すでにコンロに湯が焚かれ、ポポンSは、徐々に煮込まれてゆく。まず固い人参とジャガイモからだ。部長はそれを目撃して最後の勇、先刻、濁流を泳いだように群衆を掻きわけ、掻きわけ、
「私だ、刑吏! 煮込まれるのは、私だ。部長だ。彼を人質にした私は、ここにいる!」群衆は、どよめいた。あっぱれ。ゆるせ、と口々にわめいた。ポポンSの縄は、ほどかれたのである。
(古伝説と、ククレカ・レーの詩から。)
ださいさん、ごめんなさい。
気分はほとんどホメロスです!
部長は激怒した。必ず、あの曖昧模糊な味の店を除かなければならぬと決意した。部長はカレーが作れぬ。部長の実家は、ハヤシライスの老舗である。肉を切り、玉ねぎを炒めて暮して来た。ゆえにルーこそ違えどカレーに対しては、人一倍に純情であった。
きょう未明部長は社を出発し、坂を越え角を曲がり、500メートルはなれた此の店にやって来た。部長にはイタリー部員という心の友がいた。このイタリーは、健康センターのカレー屋に、近々、遠征する事になっていた。出発は間近かなのである。部長は、それゆえ、壮行会を兼ねてはるばるこの店にやって来たのだ。先ず、情報を集め、大路をぶらぶら歩いた。
もう一人部長には竹馬の友があった。ポポンSである。今は此の市で、本屋をしている。その友を、これから訪ねてみるつもりなのだ。
久しく逢わなかったのだから、訪ねて行くのが楽しみである。歩いているうちに部長は、まちの様子を怪しく思った。ひっそりしている。フライングして、12時前だが、けれども、なんだか、そのせいばかりでは無く、店全体が、やけに寂しい。のんきな部長も、だんだん不安になって来た。路で逢った若い衆をつかまえて、何かあったのか、二年まえに此の店に来たときは、昼でも客が行列を作って、至極賑やかであった筈だが、と質問した。若い衆は、首を振って答えなかった。しばらく歩いて老爺に逢い、こんどはもっと、語勢を強くして質問した。老爺は答えなかった。部長は両手で老爺のからだをゆすぶって質問を重ねた。老爺は、あたりをはばかる低声で、わずか答えた。
「カレーが、スッパイのです。」
「なぜスッパイのだ。」
「隠し味が隠れていない、というのですが、誰もそんな、期待はしておりませぬ。」
「たくさんのケチャップを入れたのか。」
「はい、はじめはデルモンテを。それから、ハインツを。それから、カゴメ。」
「おどろいた。店主は乱心か。」
「いいえ、乱心ではございませぬ。人とは違ったことをしたい、というのです。このごろは、常連の舌をも、お疑いになり、少しく他の店で食事をした者には、人質ひとりずつ差し出すことを命じて居ります。御命令を拒めば唐辛子を目にかけられて、殺されます。きょうは、六人殺されました。」
聞いて、部長は激怒した。「呆れた店主だ。生かして置けぬ。」
部長は、単純な男であった。買い物を、背負ったままで、のそのそ店にはいって行った。たちまち彼は、捕縛された。調べられて、部長の懐中から風邪薬が出て来たので、騒ぎが大きくなってしまった。部長は、店の前に引き出された。
「この風邪薬で何をするつもりであったか。言え!」店主は静かに、けれども威厳を以て問いつめた。その顔は蒼白で、眉間の皺は、刻み込まれたように深かった。
「店を鳥インフルの手から救うのだ。」と部長は悪びれずに答えた。
「おまえがか?」店主は、憫笑した。「仕方の無いやつじゃ。おまえには、わしの味がわからぬ。」
「言うな!」と部長は、いきり立って反駁した。「カレーがスッパイのは、最も恥ずべき失敗だ。店主は、客の舌をさえ疑って居られる。」
「疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならない。人間は、もともと私慾のかたまりさ。信じては、ならぬ。」店主は落着いて呟き、ほっと溜息をついた。「わしだって、うまいカレーを望んでいるのだが。」
「なんの為の隠し味だ。隠れていないではないか。」こんどは部長が嘲笑した。「貴重な昼食時間がフイになった。何が隠し味だ。」
「だまれ、下賤の者。」店主は、さっと顔を挙げて報いた。「口では、どんなうまそうな事でも言える。わしには、人の腹綿の奥底が見え透いてならぬ。おまえだって、いまに、磔になってから、やっぱりスッパイのが好きと泣いて詫びたって聞かぬぞ。」
「ああ、店主は悧巧だ。自惚れているがよい。私は、ちゃんと炒める覚悟で居るのに。ケチャップなど決して使わない。ただ、――」と言いかけて、部長は足もとに視線を落し瞬時ためらい、「ただ、私に情をかけたいつもりなら、処刑までに三日間の日限を与えて下さい。たった一人のイタリーに、神保町の店に行かせてやりたいのです。三日のうちに、私は店でカレーを食べさせ、必ず、ここへ帰って来ます。」
「ばかな。」と店主は、嗄れた声で低く笑った。「とんでもない嘘を言うわい。逃がした小鳥が帰って来るというのか。」
「そうです。帰って来るのです。」部長は必死で言い張った。「私は約束を守ります。私を、三日間だけ許して下さい。イタリーが、私の帰りを待っているのだ。そんなに私を信じられないならば、よろしい、この市にポポンSという本屋がいます。私の無二の友人だ。あれを、人質としてここに置いて行こう。私が逃げてしまって、三日目の日暮まで、ここに帰って来なかったら、あの友人を煮込んで下さい。たのむ、煮込んで下さい。」
それを聞いて店主は、残虐な気持で、そっと北叟笑んだ。生意気なことを言うわい。どうせ帰って来ないにきまっている。この嘘つきに騙された振りして、放してやるのも面白い。そうして身代りの男を、三日目に煮込んでやるのも気味がいい。人は、これだから信じられぬと、わしは悲しい顔して、その身代りの男を煮込んでやるのだ。つるやの親仁にうんと見せつけてやりたいものさ。
「願いを、聞いた。その身代りを呼ぶがよい。三日目には日没までに帰って来い。おくれたら、その身代りを、きっと煮込むぞ。ちょっとおくれて来るがいい。おまえの罪は、永遠にゆるしてやろうぞ。」
「なに、何をおっしゃる。」
「はは。いのちが大事だったら、おくれて来い。おまえの心は、わかっているぞ。うまいカレーが食いたいのだ。」
部長は口惜しく、地団駄踏んだ。ものも言いたくなくなった。金も払いたくない。
ふと耳に、潺々、コップ音が聞えた。そっと頭をもたげ、息を呑んで耳をすました。すぐ足もとで、水が注がれているらしい。よろよろ起き上って、見るとスプーンの入ったコップが置かれているのである。そのコップに吸い込まれるように部長は身をかがめた。水を一くち飲んだ。ほうと長い溜息が出て、食欲が湧くような気がした。食べられる。行こう。肉体の疲労恢復と共に、わずかながら希望が生れた。義務遂行の希望である。わが身を殺して、名誉を守る希望である。閉店までには、まだ間がある。私を、待っている人があるのだ。少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。私は、信じられている。私の命なぞは、問題ではない。死んでお詫び、などと気のいい事は言って居られぬ。私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。走れ! 部長。
私は信頼されている。私は信頼されている。先刻の、あの悪魔の囁きは、あれは夢だ。悪い夢だ。忘れてしまえ。五臓が疲れているときは、ふいとあんな悪い夢を見るものだ。部長、おまえの恥ではない。
路行く人を押しのけ、跳ねとばし、部長は黒い風のように走った。つるやの行列のまっただ中を駈け抜け、待っている人たちを仰天させ、犬を蹴とばし、ガードレールを飛び越え、少しずつ沈んでゆく太陽の、十倍も早く走った。一団の弁当男子とさっとすれちがった瞬間、不吉な会話を小耳にはさんだ。「いまごろは、あの男も、煮込まれているよ。」ああ、その男、その男のために私は、いまこんなに走っているのだ。その男を煮込ませてはならない。急げ、部長。おくれてはならぬ。唐辛子とターメリックの力を、いまこそ知らせてやるがよい。ライスの硬さなんかは、どうでもいい。部長は、いまは、ほとんど全裸体にネクタイのみであった。呼吸も出来ず、二度、三度、口から血が噴き出た。
見える。はるか向うに小さく、店の看板が見える「おいしいカレー」。看板は、ところどころ切れている。
「ああ、部長。」うめくような声が、風と共に聞えた。
「誰だ。」部長は走りながら尋ねた。
「イーヨ・ターニでございます。貴方のお友達ポポンSの弟子でございます。」その若い本屋も、部長の後について走りながら叫んだ。「もう、駄目でございます。むだでございます。走るのは、やめて下さい。もう、あの方をお助けになることは出来ません。」
「いや、まだ陽は沈まぬ。」
「ちょうど今、あの方が鍋に掛けられるところです。ああ、あなたは遅かった。おうらみ申します。ほんの少し、もうちょっとでも、辛かったなら!」
「いや、まだ陽は沈まぬ。」部長は胸の張り裂ける思いで、赤く大きい夕陽ばかりを見つめていた。走るより他は無い。
「やめて下さい。走るのは、やめて下さい。いまはご自分のお命が大事です。あの方は、あなたを信じて居りました。厨房に引き出されても、平気でいました。店主が、さんざんあの方をからかっても、部長は来ます、とだけ答え、強い信念を持ちつづけている様子でございました。」
「それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。飯が固い、固くないは問題でないのだ。カツの油が切れていないのも問題でないのだ。玉ねぎは2時間は炒めてもらいたいのだ。ついて来い! イーヨ・ターニ。」
「待て。その人を煮込んではならぬ。部長が帰って来た。約束のとおり、いま、帰って来た。」と大声で厨房の群衆にむかって叫んだつもりであったが、喉がつぶれて嗄れた声が幽かに出たばかり、群衆は、ひとりとして彼の到着に気がつかない。すでにコンロに湯が焚かれ、ポポンSは、徐々に煮込まれてゆく。まず固い人参とジャガイモからだ。部長はそれを目撃して最後の勇、先刻、濁流を泳いだように群衆を掻きわけ、掻きわけ、
「私だ、刑吏! 煮込まれるのは、私だ。部長だ。彼を人質にした私は、ここにいる!」群衆は、どよめいた。あっぱれ。ゆるせ、と口々にわめいた。ポポンSの縄は、ほどかれたのである。
(古伝説と、ククレカ・レーの詩から。)
ださいさん、ごめんなさい。





