トラヴィスもどきのブログ

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あらすじ

『プッシャー』

 凄腕の麻薬密売人(=プッシャー)であるフランクは、相棒のトニーと共に麻薬王のボス、ミロからの仕事をこなしては金を儲けていた。ある時、大口取引のため、ミロに多額の借金をしたフランクだったが、警察の手入れが入り失敗、金も失いボスからは借金返済を執拗に迫られる……。

『プッシャー2』

 出所したばかりのプッシャーであるトニーは、心を入れ替えてカタギな仕事に就いて真面目に生きようと決めていた。しかし知人のシャーロットとの間に自分の子供がいたことを初めて知る。そして父親でありコペンハーゲンで最も凶悪なギャングでもあるデュークの元に出向くが、デュークに対して多額の借金があったことを知る。あらゆる足枷によってますます極限の地獄へと転落していく男の姿を描く。

『プッシャー3』

老いた麻薬王ミロは、溺愛する娘の誕生日パーティーの準備で忙しかった。また自分自身は麻薬依存から抜け出そうと克服の会に顔を出していた。しかし同時に行っていた麻薬取引でヘロインを受け取るはずだったところ、1万個におよぶエクスタシーの錠剤を手にしてしまった。借金の支払いのためにヘロインを売ろうとしていたミロは、急いで現金が必要なため手下のムハンマドにエクスタシーを売ってくるよう命じるがムハンマドはそのまま帰って来ない。次第に追い詰められていくミロは狂気の道を辿っていく……。


まず、このニコラス・ウィンディング・レフィンという監督ですが、『プッシャー』トリロジーに限らず、他の作品でもストーリーテリングに関し、大きな特徴があります。ストーリーの不可視性と、ストーリーを曖昧なまま終わらせることなどです。ここから、現実世界の不可視性と割り切れなさを表現しようとするレフィンの世界観が窺えます。一見すると取っ付きずらいかもしれません。しかし、僕はそこにこそレフィンの本質があると考えていますし、非常に好きな監督の1人でもあります。もちろん?笑 『ドライヴ』をリアルタイムで見て完全にヤラれ、他作品も追っていくうちにハマっていったのですが。


今回お話しする『プッシャー』トリロジーも非常に好きです。シリーズ全作品の登場人物達から滲み出る凶暴性、そこから生み出される緊迫感、主人公には共感できないし、ままならない状況でひたすら転落していくことが予想されても、否、だからこそ終盤で提示される一瞬のロマンには儚さ故に込み上げてくるものがあり、メロドラマが大好きな僕にとってはドツボにハマりました。

このシリーズは、2・3が各々の前作の続編ではありません。1で登場した脇の人物達が2・3では主人公となる、1作品完結型のものです。共通部分として、麻薬の密売人が主人公で、彼らやその周辺の人間達の全く共感できない爛れた人間性、その連中たちから逃れたくても借金が係累となって逃げられず転落していくことなどが挙げられます。しかし、それぞれの作品内で起こる暴力描写は各々に異なった意味合いを持ち、また強調されるレフィン的要素も各作品で異なります。


レフィン映画の特徴を今回は3つ提示します。

1つに、演出・カメラワーク・編集・ライティングなど、映画のあらゆる要素を真面目過ぎる程理詰めに設計しているところです。例えば、ジャンプカットを多用して登場人物達の凶暴性を表現したり、暴力が描かれる直前のシーンでさりげなく深紅の照明が焚かれた通路を歩いたり、暴力シーンで殴られる者の主観ショットにいきなり切り替わってカメラを大きく揺らすことで暴力表現を強調したりしていることなどが挙げられます。

2つめに基本シリアストーンの中に絶妙なタイミングで入るギャグなどが挙げられます。これに関しては僕がくどくどと文章で説明するより、『プッシャー』『プッシャー2』や『ブロンソン』、輸入盤しか今のところ発売されていない『Bleeder』(僕はレフィン作品『Fear X』と共に、以前催されていたノーザン・ライツ・フェスティバルにて鑑賞)などを見て頂く方が分かり易いですし笑えるでしょう。1箇所だけ挙げるなら、『プッシャー2』で野原みたいな場所で一触即発となるシーンでその場を移動する中で、カットが変わったと思ったら前方に羊の大群がいる画(え)になるなどです。

 3つめに、観る者を戦慄させる暴力描写が挙げられます。『ドライヴ』を見たことある方ならお分かりでしょう。あのエレベーター内での甘美なキスの後乗り付けてきた男の頭部踏みつけ頭蓋破壊です。


 暴力描写について、1では物事が思惑通りに進まない時に繰り出される「暴力」、つまり他の監督の作品でもよく見られがちな意味での暴力です。暴力の意味合いとしては凡庸なものです。しかし、その見た目は凡庸なものにさせないために、上記のような見せ方をしているのだとも考えられます。

2では、これはネタバレになりますが、物語終盤あることが原因でトニーは父親のデュークからそれまで以上に罵倒され、デュークを殺してしまいます。トニー自体、どうしようもなくクズな男(デュークに高額な借金している上に、さらに金借りて風俗に行ったり、出所してすぐにフェラーリ盗難して借金の返済に充てようとしたり、子供に関しては放置し続けたりするなど)ですが、デュークを殺す直前のシークエンスにて彼からある人物の殺しを命じられても結局は殺せないなど、荒くれ者でも一線は保っているように思えてしまいます。しかし、衝動的に父親を殺します。そのため、人間の得体の知れなさを表現するための「暴力」と考えられます。

3では、娘を溺愛し、ヤク中の克服も試みるなど、一見するとシリーズ中最も正常に近いオヤジだと思って見てしまいます。しかし、ネタバレになりますが、ミロが借金している男を殺して死体を解体します。その描写にきっと全身の血の気が引くような恐怖を味わうでしょう。死体を全裸にして(ちなみに男性器に暈しはかかっていません 笑)吊るし上げ血液を殆ど抜いてから内臓を取り出すというリアルな死体損壊描写を淡々と描きます。一切のコメディ要素を排して。殺された男も、未成年の女の子が拒絶しているにも関わらず売春させようとするなど最低な男ですが。彼女を守ろうとしてミロは殺します。つまりミロの抱えるドス黒い闇の発露を表現するための暴力だと考えられる。2のトニーと比較すると、さらに人間の得体の知れなさを強調しているように考えられます。


 また、2・3は各作品の前作や前々作で強調されたレフィンの資質を抑え、他の資質を強調させていきます。

例えば、上述の通り、1では演出・カメラワーク・編集・ライティングなど、映画のあらゆる要素が理詰めで設計されています。

2では、1と比較すると凡庸なカメラワーク・編集であるが、何気ないやりとりの面白さブラックユーモアさが1と比較して強調されています。

3では2に引き続き、1での強調された部分が制限され、2で強調された要素も凡庸なものとなっていますが、その代わりに上述の恐れ慄くような残虐描写が見られます。

 上記の制限は、レフィンの意図として、表現の幅を拡げるために用いられたと思われます。

 



 以上、ひたすら駄文を書き連ねましたが、非常にオススメしたい作品ですし、日本語版のレンタルも開始されているので皆さんTSUTAYAに駆け込みましょう!