今年も8月6日がやってきました。


(写真提供 広島県)


広島市等からの要請にも拘わらず、オリンピックでの黙祷は、行われなかったようですね。


小さいときから、8月6日は朝起きたときから、すべてのチャンネルで広島平和公園の様子が写し出されているのが当たり前だったので、何も放送されない朝は寂しく感じます。


私とは、世代が全く違ってお若いですが、
広島の心をいつも発信してくださっている、あもんさんのブログを紹介させてくださいね✨
是非ご覧下さい。





ブログからさらに引用させてください。

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あもんが高校生の頃

あるアーティストが言っていた
『広島のコンサートは盛り上がらない』


ある評論家が言っていた
『被爆の遺伝子を持つ広島人はこんなに馬鹿騒ぎをしてもいいのだろうか?という潜在意識が存在する』と

あもんが大学生のころ

小説家を目指す人が言っていた
『広島で賞を取る書き物は戦争や原爆を綴ったものばかりだ』


戦争を知らないあもんはこう思った
『戦争教育によって僕たちも被爆者となった』


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特に、

『被爆の遺伝子を持つ広島人はこんなに馬鹿騒ぎをしてもいいのだろうか?という潜在意識が存在する』

に納得しました。

そうだったのかもしれない。
私がなかなかオリンピックにも乗れないのは。


決して、「馬鹿騒ぎ」とは思っていないけど、


コロナの感染拡大が止まらないのに、
医療現場が悲惨な状態なのに、
入院できなくて、自宅で苦しんでいる人がいるのに、
明日の生活がどうなるか不安な人がいるのに、


それらを忘れて、純粋に選手を応援できない私がいます。恐らくテレビをつければ、応援するのでしょうが。



今年の松井平広島市長による和宣言は、若い世代へのメッセージが印象に残りました。

折しも、地球温暖化を危惧するグレタさん等、いわゆるZ世代と呼ばれる若者の行動が、世界を動かす流れになりつつあると何かで読んだところでした。

それを受けたかのように、小学生による平和への誓いは、
「私たちには使命があります」
の言葉で始まりました。



平和宣言

76年前の今日、我が故郷は、一発の原子爆弾によって一瞬で焦土と化し、罪のない多くの人々に惨(むご)たらしい死をもたらしただけでなく、辛うじて生き延びた人々も、放射線障害や健康不安、さらには生活苦など、その生涯に渡って心身に深い傷を残しました。被爆後に女の子を生んだ被爆者は、「原爆の恐ろしさが分かってくると、その影響を思い、我が身よりも子どもへの思いがいっぱいで、悩み、心の苦しみへと変わっていく。娘の将来のことを考えると、一層苦しみが増し、夜も眠れない日が続いた。」と語ります。

「こんな思いは他の誰にもさせてはならない」、これは思い出したくもない辛く悲惨な体験をした被爆者が、放射線を浴びた自身の身体(からだ)の今後や子どもの将来のことを考えざるを得ず、不安や葛藤、苦悩から逃れられなくなった挙句に発した願いの言葉です。被爆者は、自らの体験を語り、核兵器の恐ろしさや非人道性を伝えるとともに、他人を思いやる気持ちを持って、平和への願いを発信してきました。こうした被爆者の願いや行動が、75年という歳月を経て、ついに国際社会を動かし、今年1月22日、核兵器禁止条約の発効という形で結実しました。これからは、各国為政者がこの条約を支持し、それに基づき、核の脅威のない持続可能な社会の実現を目指すべきではないでしょうか。

今、新型コロナウイルスが世界中に蔓延し、人類への脅威となっており、世界各国は、それを早期に終息させる方向で一致し、対策を講じています。その世界各国が、戦争に勝利するために開発され、人類に凄惨(せいさん)な結末をもたらす脅威となってしまった核兵器を、一致協力して廃絶できないはずはありません。持続可能な社会の実現のためには、人々を無差別に殺害する核兵器との共存はあり得ず、完全なる撤廃に向けて人類の英知を結集する必要があります。

核兵器廃絶の道のりは決して平坦ではありませんが、被爆者の願いを引き継いだ若者が行動し始めていることは未来に向けた希望の光です。あの日、地獄を見たと語る被爆者は、「たとえ小さなことからでも、一人一人が平和のためにできることを行い、かけがえのない平和を守り続けてもらいたい。」と、未来を担う若者に願いを託します。これからの若い人にお願いしたいことは、身の回りの大切な人が豊かで健やかな人生を送るためには、核兵器はあってはならないという信念を持ち、それをしっかりと発信し続けることです。

若い人を中心とするこうした行動は、必ずや各国の為政者に核抑止政策の転換を決意させるための原動力になることを忘れてはいけません。被爆から3年後の広島を訪れ、復興を目指す市民を勇気づけたヘレン・ケラーさんは、「一人でできることは多くないが、皆一緒にやれば多くのことを成し遂げられる。」という言葉で、個々の力の結集が、世界を動かす原動力となり得ることを示しています。為政者を選ぶ側の市民社会に平和を享受するための共通の価値観が生まれ、人間の暴力性を象徴する核兵器はいらないという声が市民社会の総意となれば、核のない世界に向けての歩みは確実なものになっていきます。被爆地広島は、引き続き、被爆の実相を「守り」、国境を越えて「広め」、次世代に「伝える」ための活動を不断に行い、世界の165か国・地域の8,000を超える平和首長会議の加盟都市と共に、世界中で平和への思いを共有するための文化、「平和文化」を振興し、為政者の政策転換を促す環境づくりを進めていきます。

核軍縮議論の停滞により、核兵器を巡る世界情勢が混迷の様相を呈する中で、各国の為政者に強く求めたいことがあります。それは、他国を脅すのではなく思いやり、長期的な友好関係を作り上げることが、自国の利益につながるという人類の経験を理解し、核により相手を威嚇し、自分を守る発想から、対話を通じた信頼関係をもとに安全を保障し合う発想へと転換するということです。そのためにも、被爆地を訪れ、被爆の実相を深く理解していただいた上で、核兵器不拡散条約に義務づけられた核軍縮を誠実に履行するとともに、核兵器禁止条約を有効に機能させるための議論に加わっていただきたい。

日本政府には、被爆者の思いを誠実に受け止めて、一刻も早く核兵器禁止条約の締約国となるとともに、これから開催される第1回締約国会議に参加し、各国の信頼回復と核兵器に頼らない安全保障への道筋を描ける環境を生み出すなど、核保有国と非核保有国の橋渡し役をしっかりと果たしていただきたい。また、平均年齢が84歳近くとなった被爆者を始め、心身に悪影響を及ぼす放射線により、生活面で様々な苦しみを抱える多くの人々の苦悩に寄り添い、黒い雨体験者を早急に救済するとともに、被爆者支援策の更なる充実を強く求めます。

本日、被爆76周年の平和記念式典に当たり、原爆犠牲者の御霊に心から哀悼の誠を捧げるとともに、核兵器廃絶とその先にある世界恒久平和の実現に向け、被爆地長崎、そして思いを同じくする世界の人々と手を取り合い、共に力を尽くすことを誓います。

令和3年(2021年)8月6日

広島市長 松井 一實




平和への誓い

私たちには使命があります。


あの日、広島で起きた悲惨な出来事。
そのことを知り、被爆者の方々の思いや願いを聞き、考え、
平和の尊さや大切さを、世界中の人々や次の世代に伝えなければならないのです。


昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分。
赤く燃え、真っ黒に焼け焦げてボロボロになった広島の町。
「兄が死ぬより、わしが死んだ方がよかった。」
大切な人が亡くなった悲しみと生き延びた者の苦しみには終わりがありません。


心に深く傷を負った被爆者は、それでも前を向き
「僕ら若人の力によって、きっと平和な世界を築き上げてみせる。」と決意しました。
悲しみや苦しみを抱えながらも、被爆者の方々は生きることを決して諦めず、
共に支え合い、広島の町の復興に向け立ち上がりました。


本当の別れは会えなくなることではなく、忘れてしまうこと。
私たちは、犠牲になられた方々を決して忘れてはいけないのです。
私たちは、悲惨な過去をくり返してはいけないのです。


私たちの願いは、日本だけでなく、全ての国が平和であることです。
そのために、小さな力でも世界を変えることができると信じて行動したい。
誰もが幸せに暮らせる世の中にすることを、私たちは絶対に諦めたくありません。


争いのない未来、そして、この世界に生きる誰もが、心から平和だと言える日を目指し、努力し続けます。
広島で育つ私たちは、使命を心に刻み、この思いを次の世代へつないでいきます。


令和3年(2021年)8月6日
 こども代表 広島市立袋町小学校        6年 伊藤 まりあ
                   広島市立五日市東小学校  6年 宅味 義将





ついつい長い引用ばかりになりました。


最後に、あもんさんが紹介されていた歌

私も大好きなので、貼り付けます。

『折り鶴』



追記

アメブロさんにお願い
(書いてみるだけ)

毎年8月6 日の「今日は何の日」で
広島原爆の日  でないのに、がっかりしています。
ハムの日でもあるのでしょうが、時には「広島原爆の日」を入れて頂ければ、と思います。
決して、原爆記念日にしないでくださいね。