Macでお馴染みのApple社創設者、Steve Jobs氏の名スピーチです。
これは、2006年 にアメリカ スタンフォード大学 Stanford University の卒業式に招待された時の式です。
私の自作の翻訳です。
スピーチのyoutubeも貼っておきます。





訳:本日は、この世界有数の名門大学を卒業される皆さんに祝辞を述べる事ができ、大変光栄に思います。 実を申しますと、私は大学を卒業していません。 ですからこれが、私にとっては、大学卒業に最も近い経験となります。 今日私は、自分が人生から学んだ、3つの事についてお話をさせていただきます。 たいしたものではありません。たった3つのお話です。

最初のお話は、「点を繋ぐ」というお話です。
私はリード大学を半年で退学してしまいましたが、実際に退学するまでの間18ヶ月間程は 大学に居残っていました。 なぜ私は退学してしまったのでしょうか?
話は私が生まれる前に遡ります。 私の生みの母親は若い未婚の大学院生でした。それで、私を育てることが出来ず、養子に出すことにしました。 彼女は、私を大学出の両親の家庭で育てて欲しいと強く願い、弁護士夫婦と養子縁組の手配を整えていました。 ところが、いざ私が生まれる段になって、弁護士夫婦は女の子が欲しいということになってしまったのです。   そこである夜遅くに、養子縁組待ちのリストにあったある夫婦のところに電話が行きました。  「予定外の男の赤ちゃんが生まれました。 養子縁組を希望されますか?」 夫婦は答えました「もちろん」と。
ところが、その後、その母親は大学出ではなく、父親にいたっては高校すら出ていないということを知った私の生みの母親は養子縁組の最終書類への署名を拒否しました。 その数ヶ月後、その夫婦が、私を必ず大学に行かせると約束し、生みの母は折れました。これが、私の人生の始まりです。
17年後、私は確かに大学に入学しました。 しかし私は、さしたる考えもなしに、このスタンフォード並みに学費の高い大学を選んでしまいました。 労働者階級だった両親の貯蓄は全て私の大学の学費に消えていってしまいます。 6ヶ月後、私はそこに価値を見出せなくなっていました。 私は、自分が人生において何をしたいのか、それを見つけるために大学が何の役に立つのか、全く分かりませんでした。 にもかかわらず自分が大学に残れば、両親は生涯かけて貯めたお金を残らず使い果たすことになります。 それで、私は退学すると決めました。 これですべてうまくいくと信じていました。 もちろん、その時は大変な勇気が要りました。   しかし振り返ってみると、あれは私の人生で最良の決断の1つだったといえます。 と言うのも、退学したその瞬間から、私は興味を持てない必修科目はやめて、それよりはるかに面白そうな科目に出る事が出来たからです。
もちろん、すべてがいい話というわけではありません。 寮の部屋もなくなりましたから、夜は友人の部屋の床で寝て、回収したコーラ瓶を店に持って行くともらえる5セントを集めて食物を買ったりしました。 毎週日曜の夜は、7マイル歩いて街を抜け、ハーレ・クリシュナ寺院に行って美味しいご飯にありつきました。 あれは最高に美味しかったですね。 そんなふうに、自分の興味と直感に従って動き回っているうちに出会ったものの多くが、後から思えば、この上なく価値のあるものだったのです。 例をひとつ挙げましょう。
リード大学は、カリグラフィ教育において、おそらく当時国内最高水準でした。キャンパス中のどこにでも、ポスターやら戸棚のひとつひとつに貼るラベル等、すべてが美しい手書きのカリグラフィで飾られていました。 私はもう退学していて普通の授業には出なくてよかったので、カリグラフィのクラスに出て、そのやり方を学んでみようと思ったのです。セリフとサンセリフの書体、様々な字の組み合わせに応じて文字間隔を調整する手法や、美しい字体とはどういうものか等を学びました。 それはいかにも美しく、歴史があり、科学ではとらえられない繊細な芸術性をもった世界でした。 私は夢中になりました。
もちろんその時には、これらが人生で実際に役に立つ可能性があるなどとは思ってもみませんでした。 しかし10年後、最初のマッキントッシュ・コンピュータを設計していた時、その時のことが蘇ってきたのです。 そこで私達は、それらをすべてMacマックに組み込むことにしました。 美しいフォントを持った初めてのコンピューターの誕生です。 もし私が、大学であの授業にもぐりこんでいなかったとしたら、マックには複数フォントも字間調整フォントも入っていなかったでしょう。 Windowsウィンドウズは単にマックをコピーしたものなので、パソコンがそれらを持つこともなかっただろうと思います。 もし私が退学していなかったら、あのカリグラフィのクラスにもぐりこむこともなく、パソコンが現在のようなすばらしいフォントを備えることもなかったでしょう。 もちろん、大学にいた当時、そんな先々のことまで考えて点と点を繋げるようなことはできませんでした。しかし10年後振り返ってみると、非常にはっきりと見えるわけです。
繰り返しますが、先を見て点を繋げるなんてことは出来ません。 出来るのは、後から振り返って点を繋げることだけです。 ですから、将来その点がどこかで繋がると信じなければいけないのです。 自分の勇気、運命、人生、カルマ、何でもいいから、信じなければいけません。 点がやがて繋がって道となると信じることで、たとえそれが、皆の通る道から外れていたとしても、自分の心に従う自信が生まれます。 これが大きな違いをもたらしてくれるのです。

2つめお話は、「愛」と「敗北」についての話です。
私は幸運でした。 自分が何をしたいのか、人生の早い段階で見つけることができたからです。実家のガレージでウォズとアップル社を始めたのは、私が20歳の時でした。 私達は一生懸命働きました。 そして10年後、アップル社は、たった2人のガレージ企業からスタートして、従業員4千人以上を抱える20億ドル企業になっていました。 しかし、私たちの最高の作品、マッキントッシュを発表して1年後、私が30歳の誕生日を迎えた時に、私はなんと会社をクビになってしまいました。 なぜ自分が始めた会社をクビになるのでしょうか?  アップル社が大きくなり、私達は、非常に有能と思えた人物を雇い、私の右腕として会社の経営を任せました。 最初の1年位はうまく行きました。 しかしやがて、将来に対するビジョンに食い違いが生じ、最後は決定的な亀裂を生じてしまいました。その時に取締役会が支持したのは彼のほうだったのです。 こうして私は、30歳にして会社を追い出されることになりました。 それはもう公然と追い出されたわけです。 自分が大人になってから、全身全霊打ち込んできたものを失ったのですから、私はもうぼろぼろになりました。
その後の数ヶ月間、私はどうしたらいいのか全く分かりませんでした。 自分は先輩起業家達の名誉を汚してしまった、渡されたバトンを落としてしまった、そう思いました。 デビッド・パッカード氏とボブ・ノイス氏に会って、全てを台無しにしてしまったことを詫びたりもしました。  私は世間で有名な敗北者でした。 シリコンバレーから逃げ出すことすら考えました。
しかし、やがて私の中で何かが見え始めました。 私はまだ自分の仕事を愛していました。 アップル社から追い出されても、その気持ちはいささかも変わらなかったのです。 振られてもまだ愛していました。 それで私は、もう一度やり直してみよう、そう決心したのです。
その時は分かりませんでしたが、後から考えると、アップル社を追い出された事は、私の人生最良の出来事でした。 再び初心者に戻ったことで、成功者でいる事の重みが、身軽さに取って代わったのです。 物事に対して前ほどの自信も持てなくなりましたが、同時に私は自由の身となり、人生で最もクリエイティブな時期を再び経験することが出来ました。
その後5年の間に、私はNeXTという会社を立ち上げ、ピクサーという会社を作り、さらには素晴らしい女性と恋に落ち、その女性と結婚しました。 ピクサーはやがて世界初のコンピュータ・アニメーション映画「トイ・ストーリー」を創り、今では世界で最も成功しているアニメーション・スタジオとなりました。 思いがけないことからアップル社がNeXTを買収し、私はアップル社に復帰しました。 NeXTが開発した技術は、最近のアップルの復活において中核的役割を果たしています。 そして妻ローレンと私は、素晴らしい家庭を築いてきました。
私は断言できます。 もし私がアップル社を追い出されていなかったら、これらの事はひとつとして起こらなかっただろうと。 もちろんそれは苦い薬でした しかし必要な薬だったのです。 時として人生には、レンガで頭を殴られるような酷い事が起きます。 しかし信念を投げ出してはいけません。 私がやり続けられた理由はただ1つ、自分のやっている仕事が好きだったからです。 そしてこれは皆さんの仕事や恋愛においても同じです。 皆さんにとっても、仕事は人生の大きな部分を占めていくでしょうが、真に満足するために必要なのはただ1つ、皆さんが素晴しいと信じられる仕事に取り組むことです。 そして素晴らしい仕事をしたいと思うなら、自分の仕事を愛さなければいけません。 もしまだそれを見つけていないのであれば、探し続けて下さい。 ひとつの場所に留まっていてはいけません。 心というのはうまくできているもので、それを見つければ、すぐに分かります。 そしてそれは、素晴らしい恋愛と同じで、年を重ねる毎に良くなっていきます。 ですから、探し続けて下さい。 ひとつの場所に留まってまってはいけません。

3つめのお話は、死についてです。
私は17歳の時、こんな言葉をどこかで読みました。 「毎日を、今日が人生最後の日と思って生きなさい。 やがて必ず、その通りになる日がくるから」。 それは私にとって印象的でした。そしてそれから現在に至るまで33年間、私は毎朝、鏡を見て自分に問い掛けてきました。  「もし今日が自分の人生最後の日だとしたら、今日やろうとしていることは、私が本当にやりたい事だろうか?」と。 その答えが「ノー」である日が続くと、そろそろ何かを変える必要があると分かります。
自分がそう遠くないうちに死ぬと意識しておく事は、私がこれまで重大な選択をする際に最も重要な策でした。 この世のほとんどの物、周りからの期待、プライド、屈辱や挫折に対する恐怖、こういった物の全ては、死に臨んでは、消えてなくなり、真に重要な事だけが残るからです。 自分も死に向かっているという自覚は、私の知る限り、何かを失ってしまうかもしれないという思考の落とし穴を避けるための最善の策です。 皆さんはすでに丸裸です。 自分の心に従わない理由はありません。
今から1年程前、私はガンと診断されました。 朝の7時半にスキャンを受けたところ、私のすい臓にはっきりと腫瘍が映っていました。 私はその時まで、すい臓が何かも知りませんでした。 医師達は、まずまちがいなく治療不能なタイプのガンだろうと言いました。 長くて3ヶ月から6ヶ月の命だろう、と。 主治医は私に、「家に帰って身辺を整理しなさい」とアドバイスしました。 「死の準備をせよ」という場合の医師の言い方です。 要するに、今後10年かけて子供達に 伝えたいことがあるなら、この数ヶ月のうちに言っておきなさい、ということです。 それはまた、家族が対処しやすいよう、何もかも準備しておけ、ということです。 別れを告げろ、ということですね。
私はその診断結果を抱えて丸1日過ごしました。 そしてその日の夕方遅く生検を受けました。内視鏡を喉から入れ、それが胃を通って腸に達します。 そこからすい臓に針を刺して腫瘍の細胞が幾つか採取されました。 私は鎮静剤を服用していたのでよく分からなかったのですが、立ち会った妻に後で聞いたら、顕微鏡を覗いた医師が私の細胞を見たとき、叫んだそうです。それはきわめて珍しいタイプのすい臓ガンで、手術で直せるタイプのものだったのです。   私は手術を受けました、そして今は、ありがたいことにこうして元気です。
これが私の人生の中で最も死に近づいた経験です。 この先何十年かはこれ以上近くならないよう願いたいものですが。 この経験を経た今、私は皆さんに、死というものが有益ではあるが単なる概念でしかなかった以前と比べて、少しだけ確信をもってこう申し上げます。    誰でも死にたくはありません。 たとえ天国に行きたいと願う人でも、そこに行くために死にたいとは思いません。 しかし死は、私達全てが共有する行き先なのです。かつてそこから逃れられた者は1人としていません。 そしてそれは、そうあるべきことなのです。 死はおそらく、生物にとって最高の発明です。 それは生命にとって、古いものを取り除き、新しいもののための道を開いてくれる変革の担い手です。 今、「新しいもの」とは皆さん方です。 しかしそれ程遠からぬうちに、皆さんも次第に「古いもの」となり、取り除かれる日が来ます。         ドラマチックな表現で申し訳ありませんが、これが真実です。
皆さんの時間は限られています。 他の誰かの人生を生きて無駄になどしてはいけません。 押し付けの意見にとらわれてはいけません。 それは他人の思考の結果と共に生きることだからです。 他人の意見の雑音によって自分の内なる声が掻き消されてしまわないようにして下さい。 そして最も重要な事ですが、あなたの心や直感に従う勇気を持って下さい。 心や直感は、あなたが本当は何になりたいのか、もう知っています。 他のことは全て二の次です。
私が若い頃、「ホール・アース・カタログ」という驚くべき本がありました。 私の世代にとっては聖書のような存在です。 それはここからそう遠くないメンローパークに住むスチュアート・ブランドという人物が作り出したものです。 彼の詩的なタッチは、誌面に命を吹き込んでいました。1960年代終わり頃ですから、パソコンやデスクトップ印刷はまだありません。 全てはタイプライターとはさみ、ポラロイドカメラで作られました。 グーグルが生まれる35年も前の、ペーパーバック版グーグルとでも呼ぶべきものです。 理想主義的で、いかしたツールやすばらしい考えに満ち溢れていました。
スチュアートと彼のチームは、この「ホール・アース・カタログ」の発行を何度か重ね、一通りのことをやり尽くしたところで最終号を出しました。 1970年代半ばの事です。 ちょうど今の皆さんと同じ年頃です。 最終号の背表紙は、早朝の田舎道の写真でした。 冒険好きな方ならヒッチハイク途上で一度は出会いそうな光景です。そして写真の下にはこんな言葉が書かれていました
“Stay hungry. Stay foolish” (ハングリーであれ。愚か者であれ)
それが彼らからのお別れのメッセージでした。  ハングリーであれ。愚か者であれ。      私は常に、自分自身そうありたいと願い続けてきました。そして今、卒業して新たな人生に踏み出す皆さんに対しても、同じことを願っています。
ハングリーであれ。愚か者であれ。
ありがとうございました。


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