ラーメン食べたい透明人間 -10ページ目

ラーメン食べたい透明人間

とらドラを愛してやまない物語中毒者。気が向いた時に更新します。

 

 最初に本作を知ったのはプレイ動画だった。それでタイトルと雰囲気を知り「ああ、よくあるビジュアルノベルゲーか」と高をくくっていた。しかし知り合いの感想を見ていると、どうやら普遍的な作品ではないらしい。

 

 時間を見つけプレイしたところ、まごうことなき傑作だった。一番心を動かされたのは、これを日本のビジュアルノベルに影響を受けた外国人が作ったというところだ。日本で育ったオタク文化を下地に、ここまで痛烈な作品を描いてくれ、作品の思想は世界にも広がっていくのだと感じさせてくれた。

 

 ここから先は作品の内容にガッツリ触れるので、未プレイの人はさっさとブラウザを閉じて、Steamから本作をDLしてクリアして欲しい。この作品を知らないことは幸せなことです。新鮮な気持ちでこのゲームに臨み、その後にまたこのブログを開いてくれることを願います。

 

 

https://store.steampowered.com/app/698780/Doki_Doki_Literature_Club/

 

 

 

 

 キャラクターに魂は宿るのか

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  ある日の朝、高校へ向かう主人公が幼馴染のサヨリに話しかけられ、物語は始まる。部活に入っていない主人公は、サヨリに説得され文芸部の部室に向かう。ユリ、ナツキ、モニカの文芸部員の期待を裏切ることが出来ず、しぶしぶ入部することを決意する。

 

 オタク作品に興味を持っていたのなら、ヒロイン達はどういうキャラクターなのかこの時点で把握出来るだろう。主人公も所謂ヤレヤレ系であり、漫画やアニメが好きな、ラノベ的に言うなれば「どこにでも居る普通の学生」像である。判で押されたようなキャラクターやストーリー、その後も日常パートとも呼べる取り留めのない日々が続いていく。

 

 取り留めのないとは言ったが、序盤からシュールレアリスムという単語を出してきたり、製作者は後の展開を示唆するような会話をさせている。

 

 この時点でのプレイヤーは特に気張る必要はなく、攻略対象を吟味することくらいしか頭にないと思う。知性があり的確なアドバイスをしてくれるユリ。同じ趣味を持ち、気兼ねなく接することが出来るナツキ。ドジっ子で世話を焼かせるサヨリ。誰を選ぶかで個人の趣味がわかりそうである。キャラクターを分析するとモニカが浮いていることがわかるんですが、この時点で目をつけてる人は慧眼ですね。攻略対象にいないような空気で気になった人は多いだろうが。

 

 突出した特徴を持たない主人公も、物語に入りやすくする一因となる。好意を寄せるヒロイン達、彼女らの甘言は、現実の喧騒を忘れさせ、物語に埋没させる。

 

 しかし物語を進めていくうちに、少しずつ風向きが変わってくる。物悲しい詩を好むサヨリ。父との不和を徐々に露見させるナツキ。人とは違う趣味を持つと仄めかすユリ。そして文化祭の前日に重度の鬱病を患っているとサヨリが告白し、翌日には首を吊ってしまう。

 

 人間は失ってからそれの大切さに気づく、なんて教訓を度々耳にする。それまで不穏な空気が流れ始めいたとしても、少し暗いテーマを扱った作品なんだろうと、そこまで危険視しなかったのではなかろうか。

そしてサヨリを失ってから、初めてそれを実感する。かく言う私も、文化祭の朝になってから、初めてそこまで描く作品なんだと気付かされた。

 

 詩のアドバイスをしているモニカが

 

「だって、もし人生で何事もなかったら……書くことも無くなっちゃうんじゃないかしら?人間は二次元的な生物じゃないんだから」

 

 という台詞を言う。ここの二次元的というのは、後に主人公が「それって一次元的な?」という台詞から、哲学者のヘルベルト・マルクーゼの著書である「一次元的人間」から来ているものだと推測する。一次元的人間というのは、批判的思考を喪失した人間を指す。

 

 もっと噛み砕いて説明すると、例えばSAO(ソードアート・オンライン)の世界では、脳に直接刺激を与えて仮想空間を作り出すナーヴギアという機械がある。それを使えば不快な情報はシャットアウトし、ベッドに寝ているだけで幸福感だけを得ることが出来る。その結果、人間は思考をやめ、自己の形成が出来なくなる。

 

 与えられた幸福に慣れてしまった人間は、能動的に幸福を手に入れようとしなくなるということだ。

 

 人間の理性はなにかを否定することで、初めて現実と虚構の区別を付けることが出来ると語っている。否定的な感情を無くした人間は、現実を見失ってしまうとマルクーゼは警告する。自己形成が出来ない、つまり魂が無いということだ。

 

 要するに、幸福感という一方的な感情しか持たない人間を一次元的人間と言うのならば、好意と嫌悪という表裏の感情だけを持つ人間を二次元的と言っているのであろう。

 

 まさにこのゲームのキャラクターのようではないか?

 

 主人公に対し好意しか抱かないヒロイン。

 ヒロインたちを好きか嫌いでしか判断しない主人公。

 

 現実を見失っている存在はただのキャラクターでしかなく、魂など宿らない。

 

 しかし好意を無視して友達であろうとしても、好きだと抱いても、サヨリは自ら命を断ってしまう。一次元的な感情しかなかったキャラクターが、初めて主人公の気持ちを裏切る行動をする。まさに魂が宿った瞬間と言っても過言ではない(これと同時に、ゲーム内では命を落としているのがなんとも皮肉がきいているが)

 

 サヨリは主人公が好きだった。それは幼い頃に見た、自分には出来ないことをやってみせる憧憬だったのかもしれない。それは常にそばに居てくれた感謝の気持ちだったのかもしれない。それは自分を卑下するあまり、それより優れた人間に対する畏怖なのかもしれない。それは単なる恋愛感情だったのかもしれない。”好き”という一つの感情に対し、多角的な思いを抱いたサヨリは、ただのキャラクターではなくなった。こうして初めてキャラクターに魂が宿る、そう製作者が訴えているように私は思う。

 

 

 物語でしか生きれないモノ

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 2週目からはモニカがシステムに介入し、思うようにプレイすることもままならなくなり、ユリとナツキは今まで以上に険悪になる。でもよく考えてみて欲しい。彼女らにとっては文芸部が世界の全てで、主人公を手に入れることが出来なければどうなってしまうのだろう?誰にも認知されず、世界から忘れ去られてしまうよな、そんな恐怖すら感じる。そう思うと、どんな手段を使おうと主人公に振り向いてもらおうとするのは当然だろう。

 

 そしてモニカはこの世界の構造を知り、主人公と添い遂げることが出来ないと気づいた時の絶望はどれほどのものだったのだろうか。もし彼女がこのゲームに失望し、幸せになることを放棄してキャラクターを演じ続けるのであれば、それこそ魂の喪失、死んでいるのも同然だ。

 

 この台詞を言わせたモニカの心情は計り知れない。

 

 モニカはユリとナツキの醜悪な部分を露見させ、主人公の心象を操作しようとする。しかし手を加えれば加えるほど、ユリは主人公に執着するようになる。そしてマウスポインタを強制的に操作したり、モニカだけの選択肢を作ったりする。しかし過剰な改変はエラーを起こし、ユリを自死させてしまう。

 

 文芸部という体裁を保ちたかったが、どうあがいても幸せになることが出来ないことを悟ったモニカは、主人公とふたりだけの空間を作り出す。モニカが望んだものをようやく手に入れ、それは永遠に続くものだと思っていた。しかし与えられたヒントから、プレイヤーの手でモニカのキャラクターデータを削除し、主人公はこの空間から脱する。

 

 物語の中でしか生きれないと知ったモニカ。この世界の理を知り、全知全能になったにもかかわらず、偽りであることを知ってしまったが故に、自分が生きる現実を破壊しなければいけなかった。自分が住んでる”現実”を壊し”現実”の私に告白する。そうすることでしか、ルートを与えられていない自身を救えないと思ったからだ。

 

 我々の世界とモニカの世界、「第四の壁」に阻まれ決してつながることの出来ない2つをようやく結んだにもかかわらず送られるヒント。高難度でクリアが難しいゲームにしたいのであれば、こんな露骨なヒントは出さないであろう。ならなぜそうしなかったのかを考えてみると、物語に拘泥してほしくないというメッセージなのではないか?ここまでして手に入れたものを安々と手放すようなマネをするだろうか。まるでモニカ(製作者)がこのままで終わることを望んでいないかのような。それが本当の幸せではないと教えてるような。私にはそう思えて仕方がない。

 

 

 モニカの幸福

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 そうしてまた、文芸部を復活させた。モニカのいない世界で、サヨリは毎朝ちゃんと起きれるようになり、ユリとナツキは互いの趣味を理解しようと歩み寄る。神に等しい力を持ったモニカがいない世界は平和に見えた。しかし、文芸部の部長となったサヨリはモニカと同じ力を手に入れてしまう。この世界では幸せになることが土台無理な話だったのだ。サヨリが削除され、物語はエンディングを迎える。

 

 先程、3週目はエンディングとして相応しくないと言ったが、ではこのラストが作品として相応しいものなのだろうか。モニカは、製作者は何を伝えたかったのか。全てはクリア後の詩にある。

 

 

 現実は理解されるようには出来ていない。それはドキドキ文芸部も同じことだ。しかし、幸せになることが出来なかった場所でも、理解したことがいくつかあったはずだ。鬱病とは、理不尽さとは、理解されずとも一人で生きれる強さ、好きなものに夢中になれる素晴らしさ。そしてそんな報われることのない世界だったけれど、出会ってくれてありがとうと。最後まで見届けてくれてありがとうと、モニカにとっての愛を全力で伝えてくれた。

 

 物語の世界と我々の世界は、決して交わることはない。しかし、互いの世界を通して、伝わることはあるのだ。そして物語はいつか終わるものである。永遠に続くことがなく、交わることがない世界に執着せず、現実に目を向けろということ。

 

 この世の全ての人間が、健康で文化的な最低限度の生活を送れ、きちんと教育を受けれて、現実で友人を作れ、自分に合った仕事を見つけることができ、恋愛し、結婚し、子宝に恵まれ、子供を育て上げることが出来るのであれば、物語は不要なものだ。

 

 しかし、世界はそのように出来ていない。家が貧しく満足な教育を受けれなかったり、ネグレイトを受けたり、他人と話すのが苦手だったり、受験に失敗したり、なにかがきっかけで女性恐怖症に陥ったり、就職出来ずに生活すら満足に出来なくなるかもしれない。現実には無数の落とし穴が存在し、避けようのない石につまずくこともある。だからこそ、物語が必要になるのだ。

 

 迷い、苦しみ、頓挫し、逃げ出したくなり、現実から目をそらしたくなった時、必ずしも現実に解答が待っているわけじゃない。そういう人たちを救う一つが物語だ。例え近くに理解者がいなくとも、遠いどこかに仲間がいると知れるだけでも救いになるのだ。

 

 そしてスペシャルエンディングでゲーム制作者であるDan Salvato氏のメッセージを読んだ時、不覚にも泣いてしまった。ゲームを通じ、プレイヤーと製作者の距離が限りなく0に近づいたからだ。物語とは、誰かに向けてのメッセージが込められていると信じている。そのメッセージはキャラクターを通じて我々に投げかけられるものだが、メタフィクションという手法を使い、直接的に繋がることが出来ると実感したからだ。それも本来ならほぼ出会うことが出来ない距離にいる人物と、同じ趣味を通じて繋がれたことが本当に嬉くて。Salvato氏は物語と現実だけでなく、現実と現実をも繋げることが出来ると証明してくれたのだ。そしてスペシャルエンドでは、ゲーム(のキャラや文芸部)は削除されない。文芸部は、この思いは消えないんだと言うかのように。そして最後の手紙はモニカではなく、Salvato氏名義になっている。これでモニカと製作者の距離はなくなり、製作者とプレイヤーの距離が一気に近くなった

(一応ネタバレなので反転。本当に少しの変更点だけなので見ても問題はないが、出来ることならスペシャルエンドを見てほしいと思う。このゲームが好きならなおのこと。)

 

 最初、これは選ばれることのないキャラクターのSOSだと思った。しかしSalvato氏はこの作品をラブレターだと言った。モニカはDDLCでしか伝えられない方法で愛を伝えてくれた。

 

 理解することが出来ない世界でも、誰かが必ず見てくれていると。足掻いて、藻掻いて、少しずつ視野を広げていけば、自分にとってのたった一人がいてくれていると。それを受け取った我々は、その感情を忘れず、現実で生きていくのだ。そしてそれが生きる上でほんの少しでも力になれたのなら、この物語を覚えていたのなら、それが彼女にとっての一番の幸福なのではないか。

 

 これはメタフィクションを使い、虚構と現実の距離を限界まで近づけた作品だ。だからこそ、彼女らの息遣いを間近で感じることができ、悲痛な声や願いがまるで生きている人間かのように錯覚してしまう。アメリカで生まれたこの作品は、次元との距離だけでなく、物理的な距離も縮めてくれた。

 

 Salvato氏が書いたラブレターは、日本でもじわじわと評価されてきている。互いにリスペクトしあい、さらにいい作品が生まれてくることを願うばかりである。