雷電下手投のブログ

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夢見る壮年による深夜の咆哮。

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 みなさん、こんにちは。(みなさんといったって、読者はいつも二人だけ!そのお二人も2年半ぶりの登場にもしかしたら、雷電下手投の存在など忘れてしまっているかもしれませんね)。68歳になった雷電下手投です。

 去年の6月に母を見送って、年の暮れに兄弟同然に育ったいとこに先立たれて、さすがの私もさみしさを

チョットだけテイスティングしていました。あんまり慣れないことはしないほうがいいに決まっているんですが、きっとこの経験が今まで私に欠けていた、渋味をプラスしてくれるのではないかと思っていましたのさ。それがどういうわけか、物語は急展開して、先月の末から、人前でお話しするチャンスに恵まれてきたのですよ。もともとが、引っ込み思案の性格大人しめの私だから(うそだ!と思ったあなた、あなたはまだ真実の私を知らない!)思ったことの半分もお伝えできないのですが、本当にもてる力の限り、一所懸命に真実を語っていきたいと心を決めておりますのじゃ。それが、それこそが、私をここまで育ててくれた、父さん、母さん、共に人生を歩んできたいとこ、いつも迷惑を欠けてばかりの私の奥様に報いる道だと思うのですよ。          

 私は、雷電下手投は、偉大な師匠の教えの真実の意味を語っていこうと決意しております。私の話につきあってくださる羽目に陥ってしまった皆さん、不運を嘆きつつとことんつきあってくださいね。私も少しはこの世の中で、いいことをした、と思えるものを残しておきたいのです。

 去年の12月25日に発売された私の奥さんの本もとてもご好評をいただいて、紀伊国屋さんの北千住店では「ダントツ売れ」なんて平積みしてくださるという夢のような扱いをしていただだきました。本当にありがとうございます。奥さんも一所懸命に書いた甲斐がありました。私も横でうちわであおいだ甲斐がありました。

 今年の4月に長女が披露宴をいたしました。私も花嫁の父として一言述べました。大したことは言えませんでしたが、そこはそれ、目立つのは若い二人でよいのですよ。お父さんはそこにいて、なんだか話したなぁ、という事実があればそれで十分だと思います。私、目立っていい時には、思いっきり目立つことは遠慮などいたしません。

 その挙句に、6月には奥さんが病気で入院するという事件がありまして、びっくりするやら、心配するやら、不安になるやら、もう大わらわ、泣くわ嘆くわ、みっともない姿の晒し放題で、なんで病気になった側の奥さんが私を慰めなきゃならないのかわかりませんでした。幸いというか、なんというか無事退院をしてそのあとしっかりと養生をして今はだいぶ元気になりました。きっとおちおち病気にもなれないと思ったのでしょうね。周りの方々も奥さんに「あなたのことより、ご主人のほうが心配よ」とか言われていました。へなちょこ男でごめんなさいね。私、強いところは結構強いのですが、あれはいけません。奥さんの病気は大問題ですよ。

 これらの出来事は私の何をきたえたのでしょうか?私はこれらのことを経験してどこが強くなったのでしょうか?

 それはすぐには答えを出せませんが、今生きているということ、今人を愛しているということ、周りにいるたくさんの人たちに自分ができる限りのことをして生きて行こうと思っていること、そのことは確かです。そのことが私の強さを出すきっかけになったり、弱さを引き出したりするのだと思いますよ。私は強いだけの男でも、弱いだけの人間でもありません。ただ自分の人生を潑刺と生きて行こうと思っているだけの人間です。

 いやぁ、お久しぶりすぎて、IDは忘れるしパスワードは間違えるし大変な思いをしてなんとか書いていますのじゃ。
 じゃーん。私の大切で大事な奥様の本がでます。奥様はなんと本をお書きになったのです。私は負けずに恥をかいておりますが。
 横で見ていると、今までの想像とは全く異なって、本当にたくさんの方々のお力を集合させて初めて一冊の本というのは仕上がるのですね。勉強になりましたね。
 高橋さん、多田さん、女王陛下、藤本さん、本当にお世話になりました。心より御礼申し上げます。ありがとうございます。
 思いおこせば、私自身さまざまな、良い行いや、あんまり人様には話せないようなよろしくない行いをかさねてまいりましたが、その度に向かい側にはだれかしらの人影があったのです。そそのかす人の言葉に乗ってしまったこともありました。挑みかかる人の挑発にものってきました。でも、いつも私をよい方向にいざなうだれかが必ず存在してくれていたのです。
 ありがたいと思います。そんな方々の救いで今、こうやってしぶとくも生きていられると実感をしています。
 そして今私自身がだれかのためのそんな存在になりたいと思います。
 もしかしたら、私の父さんは「ウルトラマンタロウ」だったのかも知れない。
 私によく言っていたのは、「昼にはお日様がお前を見ている。夜には星が、月がお前を見ている」だ。そこで、私は聞いた。「雨が降ったらどうするの?」「雨が降ったら、雨と一緒だ。絶対にひとりっぽちだなんて思うな」
 とにかく、空とお花が大好きな人だった。遺品となったアルバムに残されていた写真はほとんどが、雲の写真ばっかりで、生前から母によく「つまらんねー。雲ばっかりじゃなかね」と非難されていた。すると、母が近くにいなくなったのを見定めてから、「同じ雲には二度とは出会えんと」と言うのだが、私に言わんで直接母に言えばいいのにと思っていた。カメラも私は、ニコンF4を一台とF3を二台相続したが、私にはどうも荷が重すぎる。
 父は、私がしくじってもうなだれることを許さなかった。しくじったそのことを叱ったことは一度もない。大学受験にしくじったときも、大笑いをして、「それでお前、これからどうする?」と聞いた。しかし、しょげた顔をすると、「そんなつらに生んだ覚えはない!」と言って、それこそ顔の造作が変わるほどぶん殴られた。
 「空ば見てんろ。昼はお日様、夜は星と月のおらっそうが」
 今、思い出すと涙が出る。私はなんと言ってすぐれたものや才能に恵まれはしなかったかもしれないけれど、素晴しい父に巡り会えたのだと思う。 
私の父は、常日頃私にこう言っていた。
「おりゃ、聖人君子じゃなかぞ。」
だから、私を学校の成績のことで叱ったり、無知から犯してしまう失敗をとがめたりすることは決してしなかった。今、思うと有り難くもあり、すごいことだとも思う。大人の目から何とか一言言いたくなることもあっただろうに、決して私のことを促成栽培しようとはしなかった。おかげで、私はいたってのんびりした「よい性格」の人間に育ったのだと思う。
ところが、決して許さないこともあった。それが「いじわる」と「いじけ」、そして「責任転嫁」だった。それらは全て人間関係をめちゃくちゃに破壊をしてしまう、と言うのだ。これだけはだれ相手であっても許さなかった。面と向かって抗議をする人だった。私に何度もその姿を見せながら教育をしてくれたのだと思う。
そして何より強烈に私の心に残る言葉は「おい、ジャングルか砂漠に行ったら泣いても喚いてもだ-れも助けには来んぞ。」というのだ。
この世の中を自分一人の力で生きてゆく「覚悟」を教えてくれたのだ。人には頼るな、でもひとが
困っているのを見たら自分が出来る限りの力になるように、と教えてくれたのだ。
いま、私も人並みに父親になっている。でも私は自分の父親のようになれているだろうか?自分の父親のように自信を持って変な教訓をたれることができているだろうか?
実態でもないのに、聖人君子面してはいないだろうか?
私は私の愛する娘たちのただの「とうさん」でいたいと心底思っている。私の父がそうであったように。
 いつもテンション高めの、いつも破れかぶれの行動と言動を繰り返している壮年の愛読書が「孫子」だったり、「葉隠」だったりする。一切の妥協も甘えも拒絶して、これでもかこれでもかと言わんばかりの冷静さと物狂おしさがものすごいなぁと思ってしまう。
 まぁ正直言って壮年にはとてもとても真似なんかできもしないし、する気もないけれど、「世の中にはとてつもない人間もいるもんだなぁ」という感動を味あうことはちゃんとできる。その感動こそが本に限らず絵にしても音楽にしても映画にしても特に人間こそが、壮年を震えさせる。
 そんな感動を滋養にしながら壮年は日々肥え太り、発展成長をかさねているのだよ。
 片腎になりはてた壮年は愛用の自転車を操りながら今日も去っていく。
 読者がたった2人しか確認できないという伝説(どこでどういう伝説になっとるんだ?伝説にもなっとらんだろう?)の男、雷電下手投が帰ってきました。きっと、誰も知らないから待っとる人もいないだろうけど、それを言っちゃぁ、身もふたもなくなってしまうじゃぁありませんか?
 空白の一年半は私の人生にとって、初めての「大忙し」でした。大体、生まれて来てからの60年間、「あわてない、あわてない」をモットーにゆっくり生きて来たのに。急に一年前に手術を受ける事になるなんて、びっくりですよ。腎臓移植のドナーになって、次女にひとつだけプレゼントしちゃいました。東京女子医大の渕之上先生、大変お世話になりました、おかげで娘は元気になりました。私も、元々元気なのですが、ますます更に腎臓がひとつになってしまった分、輪をかけて人間的に軽さがパワーアップしてきました。
 それともう一つ、私の奥さんが本の執筆を始めまして、私がその原稿の資料集めやチェックを担当しています。なんといっても、慣れない事なので、編集の方やあちこちの皆さん方に迷惑のかけっぱなしで、穴があったら入りたい(外を歩くと結構穴はあるんだけれど、そう言うわりに一回もはいったことがないのは何故なのだろう)思いで暮らしています。どんな本か、というと私たちの仕事に関することを書いています。「体のもつ自然の働きや力をどのように感じて扱えばいいのだろう」ということなどを書いています。
 私はいい加減ですが、奥さんは真面目です。私の言動から彼女のことまで誤解をなさいませんように!彼女の名誉のため一言申し添えておきます。
 昨日は壮年のお誕生日、ばーすでいかつげぶるすたーく、だったのだよ。そんな訳でハイテンションがおさまらずに困っているのさ。外見的には、ちっとも困っているようには見えないけれど、壮年の不機嫌は寿命が短いくせにハイテンションだけはやたらと不老長寿なのだ。家庭内ではちょっと知られた「うっとうしいお父さん」なのさ。えっへん。別にえばるほどのことでもないけどね。
 思い起こせば(60歳になったら急に回顧録調になっちゃったよ)、10歳の頃は、キャッチボールに夢中だったなあ。20歳は、哲学書や映画に明け暮れていた。29歳で、生まれて来る子供と奥さんの健康を考えて16年間続けていたタバコと縁をきったのさ。30歳で父親になっても、ちっとも「おりこうさん」になれなくて、奥さんに迷惑ばっかりかけていた(まぁ、今でもまったく改善はされてないけどね)。40歳、50歳と生きて来たけれど、正直に言って、私は幸せ者だ、と思っている。奥さんは美人で人柄はいいし、子供たちは素直だし、近所の方々も好い方ばかり。
 この幸運に感謝をして、生きている限り自分の身の回りを、少しでも照らしていける人生をおくっていきたいなぁ、って思っている。やっぱり、一番感謝をしているのは、こんなふうに考えられるように教えて下さった方にだな。
 たしかに、60年、死んでしまいそうなピンチもあった。それでも死ななかったし、誰も恨まかった.この運の良さに今夜も乾杯だ。



 前回予告をしておいたとおり、壮年は完全に調子にのっているからね。何だか今までの奥ゆかしい人生がうそだったかのように、勢いづいているからね。

 思えば、e-taxも、パスワードも、IDもわたしの心を萎縮させるような事柄ばっかりが身の回りに次から次に出現してきたじゃないか。いつのまにか、自分を無力な人間だと少し思い始めていたのではないだろうか。

 今また自分に「そんなことがあるものか」と言えるいいきかけになったのだと思う。私達は死ぬまで男だ。全力で生きて全力で世の為、人の為に尽くすように育てられてきた昭和の男だ。

 私の好きな言葉に「家の為には汗を流せ。人の為には涙を流せ。国の為には血を流せ」というのがある。他人ばかりでいきるより、周りの人の幸せを思い、よりよい世の中を願い、世界の平和を考えて生きたい。

 たかがネットの成功体験と言うなかれ、何のきっかけで人間本性があらわれるか想像もつかないのだよ。


 実は、我が家族は仕事と用事とちょっと休暇で、この夏にヨーロッパに出かけることになったのだけれど、滞在先のウィーンのホテルがとれない(代理店が「ご希望にそえません」だって)ので、どうしようか、とおもっていたところ、奥様が「あなた、インターネットでとりなさいよ」とおっしゃるのだよ。
 恐る恐るホームページとやらを開いて見たところ、全部ドイツ語か英語じゃないか。その事を告げると、「中学から英語やって、大学の第二外国語はドイツ語をとったんでしょう?」といわれてしまった。そりゃそうなんだけど、事はそんなに簡単な展開は望めないからこそ、人生はやめられないんだ。
 そこで私はまたしても、奥様に褒めてもらいたい一心で、チャレンジ(ゆけ!しまじろう)してみたのだ!
 いやー。たった五泊のペンションを予約するのに、ほぼまる一日かかってしまった。これがビジネスマンだったら、上役に十五発は殴られているね(今回のおおよそのミスの数)。
 なにはともあれ、とれた。お相手のウィーンのペンションの予約係の方に心からの感謝と「お疲れさま」という言葉を伝えたい。
 しかし、しかしだよ。私のこのつたない英語とパソコン技術をもって、海外の予約がとれたことは、はっきり言って大きい。きっと、この事は今後の私を増長させるだろう。