福岡県田川市夏吉に鎮座する若八幡神社は、景行天皇(けいこうてんのう)の御宇の夏吉地域開発の祖神とされる地主神の神夏磯媛(かむなつそひめ)を祀り、その後裔で神功皇后の暗殺を企てた夏羽(なつは)田油津媛(たぶらつひめ)の御霊を鎮めるために八幡大神(はちまんおほかみ)を祀る神社です。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-夏吉若八幡神社②  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-夏吉若八幡神社①
若八幡神社の鳥居と境内


[所在地] 福岡県田川市夏吉1636 (地図

[経緯度] 北緯:33度39分33秒/東経:130度49分24秒

[御祭神]

 神夏磯媛(かむなつそひめ)

 仁徳天皇(にんとくてんのう)【大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)

 応神天皇(おうじんてんのう)【八幡大神/品陀和氣天皇(ほむだわけのすめらみこと)

 神功皇后(じんぐうこうごう)【息長帯日賣命(おきながたらしひめのみこと)

 小笠原忠眞命(おがさわらただまさのみこと)


 御祭神の神夏磯媛は景行天皇【大帶日子淤斯呂和氣天皇(おほたらしひこおしろわけのすめらみこと)】の御宇、12年(82年)9月5日、天皇が周芳娑麼(すはのくにのさば)【山口県防府市佐波】に到着された時に、磯津山【北九州市小倉南区の貫山】の榊を抜きとり、上の枝に八握釼(やつかつるぎ)をかけ、中枝(なかつえ)に八咫鏡(やたかがみ)をかけ、下枝(しづえ)に八尺瓊(やさかに)をかけ、素幡(しらはた)を船の舳(へ)に立てて出迎え、菟狹川上(うさのかはかみ)【宇佐郡の駅館川の上流】の鼻埀(はなたり)、御木川上(みけのかはかみ)【三毛郡の山国川の上流】の耳埀(みみたり)、高羽川上(たかはのかはかみ)【田川郡の彦山川の上流】の麻剥(あさはぎ)、緑野川上(みどりののかはかみ)【企救郡の紫川の上流】の土折猪折(つちおりゐおり)という皇命に従おうとしない者の情報を提供し、筑紫(九州)平定に寄与した一国の首長です。『日本書紀』は次のように伝えています。


九月甲子朔戊辰。到周芳娑麼。時天皇南望之。詔羣卿曰。於南方烟氣多起。必賊將在。則留之。先遣多臣祖武諸木。國前臣祖菟名手。物部君祖夏花。令察其状。爰有女人。曰神夏磯媛。其徒衆甚多。一國之魁帥也。聆天皇之使者至。則拔磯津山之賢木。以上枝挂八握釼。中枝挂八咫鏡。下枝挂八尺瓊。亦素幡樹于船舳。參向而啓之曰。(以下省略)
【九月甲子(きのえねのひ)(つひたち)戊辰(つちのえたつのひ)。周芳娑麼(すはのくにのさば)に到(いた)りたまふ。時に天皇(すめらみこと)(みなみ)に望(のぞ)みて、羣卿(まへつきみ)に詔(みことのり)して曰(のたま)はく。「南(みなみ)の方(かた)に烟氣(けぶり)(おほ)く起(た)つ。必(ふつく)に賊將(あた)(あ)らむ。」則(すなは)ち留(とどま)りて、先(ま)づ多臣(おほおみ)の祖(おや)武諸木(たけもろき)、國前臣(くにさきのおみ)の祖(おや)菟名手(うなて)、物部君(もののべのきみ)の祖(おや)夏花(なつはな)を遣(つかは)して、其(そ)の状(かたち)を令察(みしめ)たまふ。爰(ここ)に女人(をみな)(あ)り。神夏磯媛(かむなつそひめ)と曰(い)ふ。其(そ)の徒衆(やから)甚多(にへさ)なり。一國(ひとくに)の魁帥(ひとごとのかみ)なり。天皇(すめらみこと)の使者(つかひ)の至(まうく)ることを聆(き)きて、則(すなは)ち磯津山(しつのやま)の賢木(さかき)を拔(こじと)りて、上枝(ほつえ)に八握釼(やつかつるぎ)を挂(とりか)け、中枝(なかつえ)に八咫鏡(やたかがみ)を挂(とりか)け、下枝(しづえ)に八尺瓊(やさかに)を挂(とりか)け、また素幡(しらはた)を船(ふな)の舳(へ)に樹(た)てて、參向(まうでき)て啓(まを)して曰(まを)さく。(以下省略)】
~『日本書紀 卷第七』~


 それから127年後、神功皇后の御宇9年(209年)3月25日、神夏磯媛の後裔にあたる夏羽(なつは)は、神功皇后の暗殺を企て、妹の田油津媛(たぶらつひめ)を援護するため軍勢を率いてかけつける途中、山門縣(やまとのあがた)【現在の福岡県山門郡瀬高町のあたりで妹が敗戦したことを知り、夏羽(なつは)は館に逃げ帰り篭っていたところを追ってきた神功皇后の軍勢に焼き殺されてしまいました。それ以来、その土地を夏羽焼(なつはやき)、夏焼(なつやき)とよばれるようになったそうです。江戸時代になって小笠原忠眞が若八幡神社を参詣された時、不吉な村名の「夏焼」を「夏吉(なつよし)」に改め現在に至っています。


 『日本書紀』には、山門縣(やまとのあがた)田油津媛が敗戦したことを聞き、夏羽が兵を構え迎える途中で逃げ帰ったことだけが伝えられています。


丙申。轉至山門縣。則誅土蜘蛛田油津媛。時田油媛之兄夏羽。興軍而迎來。然聞其妹被誅而逃之。

【丙申(ひのえさるのひ)。轉(うつ)りまして山門縣(やまとのあがた)に至りて、則(すなは)ち土蜘蛛(つちぐも)の田油津媛(たぶらつひめ)を誅(つみな)ふ。時に田油津媛(たぶらつひめ)の兄(いろね)、夏羽(なつは)。軍(いくさ)を興(おこ)して迎來(むかへまう)く。然(しかる)に其(そ)の妹(いも)の被誅(つみなはれ)たるを聞(き)きて逃(にげ)ぬ。】

~『日本書紀 卷第九』~


 その後、光仁天皇(こうにんてんのう)【天宗高紹天皇(あめのむねたかつぐのすめらみこと)】の御宇【和銅2年(709年)~天應元年(782年)】の間に、夏羽の亡霊の祟りを鎮めるため、大宮司屋敷に宇佐神宮を勧請し、慶長13年(1608年)2月3日、現在地に遷座されました。祭神の仁徳天皇は、平清盛が香春岳鬼ヶ城の守護神として香春岳の中腹に京都の平野神社を祀っていたのを合祀したものだそうです。


 江戸時代、小笠原忠眞が困窮のどん底にあった村民を救済する施策を行うなど、地域繁栄の功績を感謝し、逝去の後、相殿に小笠原忠眞の神霊を祀り、享和元年(1801年)に朝廷より、小笠原忠眞の神霊に「輝徳霊神」の神号と霊璽を賜り現在に至っています。神紋は小笠原家の家紋と同じ三階菱に因むものです。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-夏吉若八幡神社④  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-夏吉若八幡神社③


 鳥居を潜り、階段を上がって拝殿の前に辿り着くとほのぼのした石造の牛が2体、出迎えてくれます。狛犬も鳥居の脇にありますが…。