宇佐神宮の最初の鎮座地で『宇佐八箇社』のひとつ。古くは宇佐河(うさがは)と呼ばれていた大分県宇佐市を流れる駅館川(やっかんがわ)。その東岸に鷹居神社(たかゐじんじゃ)、西岸に郡瀬神社(こうのせじんじゃ)が鎮座しています。八幡大神が御遊化の昔に、鷹の姿で東岸の「鷹居」の松にいて、空を飛び西岸の「郡瀨」の地面におりたので、この2つの御神域をあわせて「鷹居瀬社(たかゐせやしろ)といいます。


次 鷹居 豐前國宇佐郡 同時神託
其至鷹居 
云々
次 郡瀨 云々
其至郡瀨 云々
此兩所者 有宇佐郡大河 化鷹渡瀨居東岸之松 又飛空遊西岸之地 故云鷹居瀨社 斯鷹是大御神之變也 大神比義祀祈顯之 立祠致祭也

【次 鷹居(たかゐ)。豐前國宇佐郡。同じ時の神託。
「それより鷹居に至る。」云々。
次 郡瀨(こうのせ)云々。
「それより郡瀨に至る。」云々。
この兩所(ふたところ)は、宇佐郡(うさのこほり)の大河(おほかは)にあり。鷹(たか)に代(かは)り瀨(せ)を渡(わた)り東(ひむかし)の岸(きし)の松(まつ)に居(ゐま)しき。また空(そら)を飛(と)び西(にし)(きし)の地(つち)に遊(あそば)す。故(ゆゑ)に鷹居瀨社(たかゐせやしろ)と云(い)ふ。この鷹(たか)は、これ大御神(おほみかみ)の變(かはり)なり。大神比義(おほがのひぎ)、祈(いの)り奉(まつ)りこれを顯(あらは)す。祠(ほこら)を立て、祭(まつり)を致(いた)すなり。】
~『八幡宇佐宮御託宣集』日本國御遊化部~


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-鷹居瀬社②


鷹居神社

[所在地]大分県宇佐市大字上田字鷹居(地図

[御祭神]
 八幡大神(やはたおほかみ/はちまんおほかみ)【應神天皇】


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-鷹居瀬社①


郡瀬神社
[所在地] 大分県宇佐市大字樋田字瀬社(地図
[御祭神]
 八幡大神【應神天皇】
 中帶日子命【仲哀天皇】
 息長帶姫命【神功皇后】


 八幡大神は、天國押波流岐廣庭命(あめくにおしはるきひろにはのみこと)【欽明天皇】32年(571年)、菱形池(ひしがたいけ)のほとりに『廣幡八幡麻呂(ひろはたのやはたのまろ)』として顕現されましたが、和銅5年(712年)まで、どこにもお祀りされることなく、宇佐郡を流れる大河のひとつ「宇佐河(うさがは)」【駅館川】の瀬を鷹の姿で飛び渡り、西岸【瀨社】から東岸【鷹居】の松の木に留まりました。


 和銅3年(710年)のある夜、八幡大神は「我は神となって後、空を飛び回ったが住む所がなかった。そのために心がすさんでしまった」と、大神比義(おほがのひぎ)辛嶋勝乙目(からしまのすぐりをとめ)に姿をあらわさず声のみで告げました。


 大神比義は、和銅3年(710年)から和銅5年(712年)まで祈りを捧げ、八幡大神を祀る初めての社殿を建立しました。これが、現在の鷹居瀬社のちの宇佐神宮はじまりです。


豐前國宇佐郡内 大河流 今號宇佐河 西岸有勝地 東峯有松木 變形多瑞 化鷹顯瑞 渡瀨而遊比地 飛空而居彼松 是大御神之御心荒畏坐 往還之類 遠近之輩 五人行即三人殺 十人行即五人殺 干時大神比義又來 與辛嶋勝乙目兩人 絶穀三箇年 精進一千日依奉祈之 御心令和之給 和銅三年不見其躰 只有靈音 夜來而言

 我靈神後 飛翔虚空 無棲息 其心荒多利

此是奉前顯之大御神也 自和銅三年庚戌。迄同五年壬子 奉祈鎭之。初立宮柱。奉齋敬之。勤神事。即鷹居瀨社是也
【豐前國(とよくにのみちのくちのくに)宇佐郡(うさのこほり)の内(なか)に大河(おほかは)(なが)るる。今(いま)、宇佐河(うさかは)と號(なづ)く。西岸(にしのきし)に勝地(まさるところ)あり。東峯(ひむがしのみね)に松(まつ)の木(き)あり。形(かたち)の變(かは)る多(さは)の瑞(みしるし)、鷹(たか)と化(な)る瑞(みしるし)を顯(あら)はす。瀨(せ)を渡(わた)りて比(こ)の地(ところ)に遊(あそば)したまひき。空(そら)を飛(と)びて彼(か)の松(まつ)居(ゐま)しき。これ大御神(おほみかみ)の御心(みこころ)(あら)び畏(かしこ)み坐(いま)す。往還(ゆきかへり)の類(たぐひ)、遠き近きの輩(ともがら)、五人行けば即ち三人殺め。十人行けば即ち五人殺む。時(とき)に、大神比義(おほがのひぎ)(き)たり、辛嶋勝乙目(からしまのすぐりをとめ)と兩人(ふたり)、穀(たなつもの)を絶(た)つこと三箇年(みとせ)、精進一千日に依(よ)りて祈(の)み奉(まつ)り、御心(みこころ)の和(なご)ましめ給(たま)ふ。和銅三年、その躰(かたち)は見(み)へず。ただ靈(みたま)の音(おとなひ)あり。夜(よ)に來(きた)りて言(のたまは)く。

 「我(あ)れ靈神(かみ)(なり)て後(のち)、虚空(そら)(とび)(かけ)る。棲息(すまふところ)(な)し。その心(こころ)(あらびせ)たり」


(こ)れ是(こ)の顯(あらは)し奉(まつ)る前(まへ)の大御神(おほみかみ)なり。和銅三年庚戌(かのえいぬ)より同五年壬子(みづのえね)まで。祈(の)み奉(まつ)りこれを鎭(しづ)め、初(はじ)めて宮柱(みや)を立(た)て、齋(いつ)き敬(ゐやま)ひ奉(まつ)り、神事(まつり)を勤(つと)む。即(すなは)ち鷹居瀨社(たかゐせやしろ)これなり。】

~『八幡宇佐宮御託宣集』 鷹居瀨社部~


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-鷹居瀬社③
郡瀬神社の岸から鷹居神社の岸を望む



 靈龜2年(716年)、鷹居瀬社(たかゐせやしろ)鷹居神社(たかゐじんじゃ)郡瀬神社(ごうのせじんじゃ)】に鎮座していた八幡大神の「この場所は路頭にあり、往還の人はあるが、敬う人はいない。此れを咎めるにはとても慰めしいことである。小山田の林に移り住みたい」という神託によって、同年、大神朝臣諸男辛嶋勝波豆米が神殿を造営して八幡大神を「鷹居瀬社」(郡瀬神社)からこの「小山田社」(小山田神社 )に遷宮されました。


一云 四十四代元正天皇二年。靈龜二年丙辰
 此所路頭仁志弖往還人無禮奈利 訦牟禮波此等甚慰 小山田移住世牟登願給

【あるひは云ふ。元正天皇二年。靈龜二年丙辰(ひのえたつ)
「此所(このところ)は路頭(みちさき)にして往還(ゆきかへり)の人、無禮(うやまひなき)なり。咎(とが)むれば、此等(これら)甚慰(はなはだめぐ)し。小山田(をやまだ)の林(はやし)に移住(うつりすみ)せむと願給(ねがひたま)ふ」と。】
~『八幡宇佐宮御託宣集』 鷹居瀨社部~


 宇佐神宮が、『鷹居瀬』に鎮座していたのは、和銅5年(712年)から靈龜2年(716年)の5箇年。この頃の祭神は八幡大神のみで、人々の崇敬は薄いものだったようです。「宇佐郡の大河」こと駅館川の東西の岸に、今も静かに宇佐神宮の旧社地として鎮座し続けています。