奈良時代、天平13年(741年)3月24日、天璽國押開豐櫻彦天皇(あめしるしくにおしひらきとよさくらひこのすめらみこと)【聖武天皇】の『國分寺建立の詔』が発せられたっことによって、日本全国に国分寺と国分尼寺が建立された。


その國分寺のひとつ豊前国分寺跡は現在、史跡公園として整備されている。豊前国分僧寺の敷地は昭和51年(1976年)に国指定史跡となっている。


豊前國分寺

[所在地] 福岡県京都郡みやこ町大字国分297-1〔地図

[御本尊] 藥師瑠璃光如來【Bhaiṣajya-guru-vaidūrya-prabha-rāja】


『國分寺建立の詔』 【讀日本紀】

詔曰。朕以薄德。忝承重任。未弘政化。寤寤多慚。古之明主皆能先業。國泰人樂。災除福至。俢何化能臻此道。頃者年穀不豊。疫癘頻至。慙懼交集。唯勞罪己。是以廣爲蒼生遍求景福。故前年馳驛增飾天下神宮。去歳普令天下造釋迦牟尼佛尊・像高一丈六尺者各一舗。併寫大般若經各一部。自令春已來。至于秋稼。風雨順序。五穀豊穰。此乃徴誠啓願。靈貺如荅。載惶載懼無以自寧。案經云。「若有國土講宣讀誦。恭敬供養。流通此經者。我等四王。常來擁護。一切灾障。皆使消殄。憂愁疾疫。亦令除差。所願遂心。恒生歡喜者。」冝令天下諸國各敬造七重塔一區。併寫金光明最勝王經。妙法蓮華經各一部。朕又別擬寫金字金光明最勝王經。毎塔各令置一部。所冀。聖法之盛。与天地而永流。擁護之(恩)。被幽明恒滿。其造塔之寺。兼盡潔清。近咸諸天。庶幾臨護。布告遐迩。令知朕意。又毎國僧寺。施封五十戸。水田十町。尼寺水田十町。僧寺必令有廿僧。其寺名爲金光明四天王護國之寺。尼寺一十尼。其寺名爲法華滅罪之寺。兩寺相共冝受敎戒。若有闕者。即湏補滿。其僧尼。毎月八日。必應囀讀寂勝王經。毎至月半。誦戒羯磨。毎月六齋日。公私不得漁獵殺生。國司等冝恒加撿挍。


さて、以上が『國分寺建立の詔』の内容だ。これを要訳すると…。


相次ぐ疫病、農作物の不作、反乱や災害などの社会不安を取り除くために…。

 ① 天下諸国に七重塔(1区)を造らせ、金光明最勝王経と妙法蓮華経を写す。(各1部)

 ② これと別に金字の金光明最勝王経を塔ごとに安置する。

 ③ 七重塔と寺は「国の華」であるから好所を選んで永続するよう、国司は厳飾を加え清浄を尽すこと。

 ④ 僧寺には封50戸、水田10町、尼寺には水田10町を施す。

 ⑤ 僧寺には20僧を置いて「金光明四天王護国之寺」(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)と称す。

 ⑥ 尼寺には10尼を置いて「法華滅罪之寺」(ほっけめつざいのてら)と称する。

 ⑦ 僧尼ともに教戒を受け、欠員ある場合は補充する。

 ⑧ 毎月8日に金光明最勝王経を転読、月の半ば(15日)に戒羯暦を誦する。

 ⑨ 六斎日には殺生を禁ずる。

 ⑩ 国司等は恒に検校を加える。


豊前国分寺にも、僧寺の「金光明四天王護国之寺」と尼寺の「法華滅罪之寺」の伽藍が建立され、僧寺には金光明最勝王経と妙法蓮華経を納めた七重ノ塔建立と僧20人、尼寺には10人の尼が置かれた。


豊前国分寺の建立は、各国の国司の指揮のもとに国内の郡司たちが中心となってすすめられ、およそ15年の歳月を要し、天平勝寶8年(756年)ごろに主要建物である南門・中門・金堂・講堂・七重ノ塔・僧房・食堂などの七堂伽藍が整備されたと考えられている。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-豊前国分寺講堂基壇跡
豊前国分寺(「金光明四天王護国之寺」) 僧寺講堂基壇跡


その後、平安時代にかけて盛んに活動を続けていた諸国の国分寺も、鎌倉時代以降多くが衰退する中、宇佐神宮と六郷満山仏教文化や英彦山修験道の支えもあってか、豊前国分寺は平安時代に天台宗の寺院となり、鎌倉・室町時代にも法灯を灯し続けていたと伝えられている。


戦国時代末期の天正年間(1573~1592)に戦国大名であった大友氏の戦火に伽藍のほとんどが焼失した後も、すぐに草庵を復興し、本尊として薬師瑠璃光如来が安置された。


その後、小笠原藩の援助のもと、寛文6年(1666)に本堂。貞享元年(1684)に鐘楼門。本来は七重塔であった三重塔は明治21年(1888年)に着工し、明治28年(1895年)完成、明治29年(1896年)1月に落慶法要が行われた。奈良県の法起寺の三重塔と並び高さ23.3mを誇っています。内部には大日如来が安置されている。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-豊前国分寺三重塔① 豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-豊前国分寺三重塔②
豊前国分寺の三重塔【福岡県指定有形文化財】


初層の大きさは一辺が約7.5m。建築様式は層塔と多宝塔の折衷様式。心柱は全長23m、根元60㎝角の杉材の一本物。屋根瓦は発掘調査で出土した、創建当時の鴻臚館系軒丸瓦・法隆寺系軒平瓦・大宰府系鬼瓦が復元された。


二層目の上部の外壁面には、明治の文明開化の香りを漂わせる十二星座の彫刻が見られる。

豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-豊前国分寺三重塔③
二層目の十二星座の彫刻のひとつ「蟹座」


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-豊前国分寺三重塔④ 豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-豊前国分寺三重塔⑤
豊前国分寺三重塔の鴻臚館系軒丸瓦と法隆寺系軒平瓦

豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-豊前国分寺三重塔⑥  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-豊前国分寺三重塔⑦
豊前国分寺三重塔の風鐸と相隣

三重塔の風鐸は、時に風に揺れて「カン。カン。」という、たおやかな音を奏でることがある。風鐸の写真を撮影したこの日も三重塔に安置されているという大日如来に向かい手を合わせた瞬間、風にゆれ音を立て、祝福を受けているかのような神妙な心地にさせてくれた。 

貞享元年(1684)に建立された鐘楼門の南に位置する山門の西傍には、山門の南側から出土した中門の礎石が移設されている。奈良時代の国分寺には中門と南門があり、南門は現在の山門の入口から南へ約60mの県道交差点付近に建っていたと推定されている。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-豊前国分寺山門  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-豊前国分寺鐘楼門
豊前国分寺の山門と鐘楼門(山門の傍・中門の礎石)



 夏の季節、三重塔から本堂へ進む途中の池には、睡蓮の花が咲き、凛として甘い香りを放つ。妙法蓮華經從地涌出品第十五(Saddharmapuņdarīka 14. Bodhisattvapŗthivīvivarsamudgama.)に「不染世間法 如蓮華在水」【世間の法に染まらざること 蓮華の水に在るが如し】とあるように、"泥に汚されず水面に咲く蓮華のように、汚れない"蓮の華の凜として開く姿は、どんな逆境にあっても、必ず華麗な夢の花を開かせることができるということを教えてくれているような感じさえしてきそうだ。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-豊前国分寺の睡蓮
豊前国分寺の境内の池に咲く睡蓮の花


また、初春の頃には史跡公園内に植樹された梅の花が咲き、ほのかで甘いやさしい香りに包まれ、花の蜜を求めて飛んで来るメジロのかわいい姿を見ることもできる。