大分県中津市に鎮座する闇無濱神社【闇無浜神社】(くらなしはまじんじゃ)は、豐國(とよくに)の土地そのものを神としてお祀りする神社です。古くは「豊日別宮(とよひわけのみや)、「豊日別國魂神社(とよひわけくにたまじんじゃ)と称されていましたが、明治5年に現在の「闇無濱神社」に改称されました。


 崇神天皇(すじんてんのう)御眞木入日子印惠命(みまきいりひこいにゑのみこと)】の御宇(紀元前97~紀元前30年)の鎮座と伝えられ、豐國(とよくに)全土における産土神(うぶすながみ)・守護神を祀る古い神社です。


 古くは現在地より南の「中の御崎(なかのみさき)」の丸山に鎮座していましたが、建武元年(1334年)3月の頃、「丸山城」(現在の中津城址)の中になり、参詣の不便さから、神卜(占い)によって建武元年5月4日、「下正路之御崎」(現在地)の闇無濱に遷宮され現在に至っています。


後醍醐天皇(ごだいごてんのう)建武元甲戌年三月、豐日別龍王宮(とよひわけりうおうぐう)、丸山(まるやま)の城中(しろのなか)に在(あ)り。貴賤の参詣の便(たより)自由ならず。是の故に神卜を以(もち)て宮地(みやち)を撰(えら)び、本宮の北、中之御崎(なかのみさき)に神宮を遷座し奉る。東西三町南北二町余なり。是より先、祇園の神、下正路之御崎(しもせふぢのみさき)に御鎭座なり。同年五月四日、豐日別太神遷宮、同月五日夜衆會の連歌有り。

~『豐日別宮傳記』~


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-闇無濱神社①
闇無濱神社


[所在地]

大分県中津市大字竜王447番地 (地図


[経緯座標]

北緯:33度36秒39秒/東経:131度11分38秒


[御祭神]

 ◎豐日別宮(本殿中央・本社)

  《崇神天皇御眞木入日子印惠命】の御宇(紀元前97~紀元前30年)鎮祀》

   (中之御座)

   豐日別國魂神(とよひわけくにたまのかみ)

   瀨織津姫神(せおりつひめのかみ)

  《景行天皇【大帶日子淤斯呂和氣命(おほたらしひこおしころわけのみこと)】4年(74年)3月鎮祀》

   (豊日別荒魂宮)

   底津海津見神(そこつわたつみのかみ)

   中津海津見神(なかつわたつみのかみ)

   表津海津見神(うはつわたつみのかみ)

  《景行天皇【大帶日子淤斯呂和氣命】12年(82年)9月鎮祀》

   (右之御座)

   武甕槌神(たけみかづちのかみ)

   經津主神(ふつぬしのかみ)

   (左之御座)

   天兒屋根神(あめのこやねのかみ)

   別雷神(わけいかづちのかみ)


 ◎祗園八坂社(右社殿・向かって左社殿)

  《後醍醐天皇(1318~1339年)の御宇に鎮祀》

   速素佐乃男命(はやすさのをのみこと)

   櫛名田比賣神(くしなだひめのかみ)

  《配祀・鎮祀年代不詳・最古の祭神》

   天忍穗耳神(あめのおしほみみのかみ)

   天穗日神(あめのほひのかみ)

   天津日子根神(あまつひこねのかみ)

   活津日子根神(いきつひこねのかみ)

   熊野樟日神(くまのくすひのかみ)

   多紀理姫神(たぎりひめのかみ)

   狹依姫神(さよりひめのかみ)

   多岐津姫神(たきつひめのかみ)


 ◎住吉社(左社殿・向かって右社殿)

  《仁壽2年(852年)に鎮祀》

   底筒男神(そこつつのをのかみ)

   中筒男神(なかつつのをのかみ)

   表筒男神(うはつつのをのかみ)

   安曇磯良(あずみのいそら)


 ◎惠比須社(拝殿東側・境内社)

  《天明5年(1785年)鎮祀》

   八重事代主神(やゑことしろぬしのかみ)

  《合祀・御祖社・天明3年(1783年)鎮祀》

   天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)

   高御産巣日神(たかみむすひのかみ)

   神産巣日神(かむむすひのかみ)

  《合祀・厳島社・天保元年(1830年)鎮祀》

  市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)


 ◎金刀比羅社(拝殿東側奥手・境内社)

  《嘉永元年(1848年)3月鎮祀》

   大物主神(おほものぬしのかみ)


 ◎稲荷社(境内参道沿・境内社)

  《明治15年(1882年)鎮祀》

   宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-闇無濱神社  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-闇無濱神社②
祇園八坂宮と豊日別宮、神紋の「丸に澤瀉」

 闇無濱神社の本社「豐日別宮」に鎮祀される豐日別國魂神は、“豐日別(とよひわけ)の國の魂の神”の意で、「豐日別」とは、豐國の古称です。その『豐國』を守護する土地(産土)の神、『豐國』(豊前國と豊後國)を守護する神なのです。『古事記』には次のように記されています。


次生、筑紫嶋。此嶋亦身一而有面四。毎面有名。故筑紫國謂白日別。豐國謂豐日別。肥國謂建日向日豐久士比泥別。自久至泥以音。熊曾國謂建日別。曾字以音。

【次に筑紫嶋を生みたまひき。此(こ)の嶋(しま)も身(み)一つにして面(おも)四つあり。面(おも)ごとに名あり。故(かれ)、筑紫國(つくしのくに)を白日別(しらひわけ)と謂(い)ひ、豐國(とよくに)を豐日別(とよひわけ)と謂ひ、肥國(ひのくに)を建日向日豐久士比泥別(たけひむかひとよくじひねわけ)と謂ひ、熊曾國(くまそのくに)を建日別(たけひわけ)と謂ふ。】

~『古事記 上卷』~


 往古の昔、九州は『筑紫嶋(つくしのしま)と呼ばれ、筑紫國・豐國・肥國・熊曾國の4つの國でしたが、後に筑前國・筑後國・豐前國豐後國・日向國・肥前國・肥後國・薩摩國・大隅國の9つの國に分置されため「九州」とも呼ばれるようになりました。


 この伊耶那岐命(いざなぎのみこと)伊耶那美命(いざなみのみこと)の国生みにお生まれになった『筑紫嶋』【九州】のうち「豐國を豐日別と謂ひ」とある『豐日別』こそが闇無濱神社の御祭神の豐日別國魂神なのです。


 次に、瀨織津姫神(せおりつひめのかみ)は、「祓戸大神(はらへどのおほかみ)のうちの1柱の女神で、伊邪那岐命が「竺紫日向小戸阿波岐原」で「禊祓」をされた時に「成った神」と伝えられています。『大祓詞』には、祓戸大神として瀨織津姫神速開津比賣神氣吹戸主神速佐須良比賣神の4柱の神々の名があげられています。瀨織津姫神の働きを『大祓詞』(おほはらへことば)は次のようにあげられています。


高山(たかやまのすゑ)短山與里(ひきやまのすゑより)佐久那太理落多岐都(さくなだりにおちたぎつ)速川須(はやかはのせにます)瀨織津比賣(せおりつひめというかみ)大海原持出傳奈牟(おほうなばらにもちいでなむ)

~『大祓詞』(おほはらへことば)抜粋~


 瀨織津姫神は、「高い山、低い山から湧き流れる水の、滾(たぎ)り落ちる流れの速い川の瀬にいらっしゃって、(罪・穢れを)海へと持ち出す」神なのです。


 『豐日別宮傳紀』に、瀨織津姫神は伊奘諾尊が日向の橘の小戸の檍原に禊祓をされた時、左の眼を洗ったことによって成り生れた太陽の神の大日孁貴(おほひるめのむち)【天照大神(あまてらすおほみかみ)】の荒魂(あらみたま)【活動的で盛んな魂】と伝えられています。中津にお姿をあらわされた時、白龍のお姿をあらわされたので「太神龍」というと伝えています。闇無濱神社の「竜王宮」という別称もこれに準ずるものです。


瀨織津姫神は、伊奘諾尊(いざなぎのみこと)日向(ひむか)の橘(たちばな)の小戸(をど)の檍原(あはぎはら)に秡除(はらへ)し給ふ時、左の眼(みめ)を洗ふに因(よ)りて以(もち)て生(あ)れます日(ひ)の天子(あまつみこ)大日孁貴(おほひるめのむち)なり。天下(あめのした)化生(なりあれ)ませる名(みな)を天照太神荒魂(あまてらすおほみかみのあらみたま)と曰(まを)す。所謂(いはゆる)秡戸神(はらへどのかみ)瀨織津比咩神(せおりつひめのかみ)(これ)れなり。中津(なかつ)に垂迹(あとたる)時に白龍の形に現(あらは)れ給(たま)ふに依(よ)りて、太神龍(たいしんりう)と稱(まを)し奉(まつ)るなり。

~『豐日別宮傳紀』~


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-闇無濱神社③  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-闇無濱神社④
境内社の蛭皃宮、豊日別宮周辺古図

 少し長いですが…(笑)

 中央の御殿に9柱の神々がお祭されるまでの御由緒を抜粋して紹介させていただきます。


「老人」の神託

 ある朝、彦雄がこの地(中津)の北浜で身滌(みそぎ)をしていると1人の老人が現れて、「汝は知るまいが、この地は西に川水がめぐり流れ、朝夕に潮がさかのぼる清らかなところである。神代より豐日別國魂神がお姿を現し示された霊地である。雑草を刈り払い、境を立て、神を祀るがよい」と申されました。老人と彦雄は数百歩をともに歩き、神を祀るべきところを中津川の東岸に示し定められました。


 一朝(あるあさ)、彦雄、此(こ)の地(ところ)の北濱(きたはま)に到(いた)りて、秡除(はらへ)して悠然として座す。老人來(きた)り告げて曰(いは)く「汝(いまし)知らずや、この地(ところ)の西の河水(かはみづ)(めぐ)り流れて、朝夕(あさゆふ)の潮沂(しほさかのぼ)り湛(たた)へて清浄(きよらか)なり。神代(かみよ)より豐日別國魂神、姫太神(ひめおほかみ)垂迹(あとたれ)たまふ靈區(あやしきちまた)なり。荊棘(うばら)を披拂(はら)ひ境内(さかひ)を分ちて、齋(いつ)き奉(まつ)るべし」と謂(い)ひて、則ち老人、彦雄と相共(あひとも)に歩(あゆみ)を進め数百歩ばかりにして、祭祀を致すべき其の処に見(まみ)えしむ。中津川東岸なり。

~『豐日別宮傳紀』~


「明鏡」の御験

 また老人(の姿をした神)は、「神霊の降りる時が近づく時、潔斎して待てば、必ずに神の御姿を見ることがあるでしょう」と申されたので、彦男は不思議に思い老人の名前を問うと老人は、「吾が名は後にわかるであろう。吾が形はあとにみるであろう。天皇から万民にいたるまでを守護しよう。これを御験とせよ」と告げて、懐から2面の明鏡を取り出し彦男に与えました。彦男は斎戒して、その鏡を川辺の松の枝に掛け3日3夜祈り続けました。


 老人亦曰く、「大神(おほかみ)の靈(みたま)感ずる時に至り、潔齋(ものいみ)を發(いた)せ、忽ち神躰を見る事あらむ。」彦雄怪みて姓名を問ふ。老人曰く、「吾が名は後に知らむ、吾が形は後に見む。或は乙女(をとめ)・童形(わらべ)となり、亦、老人・神龍となり、天(あめ)に上(のぼ)り地(つち)に入(い)り山海(やまうみ)に止(とどま)り、至らざる所無くして、上は皇(すめらぎ)より下は万民を守護(まも)るなり。汝是れを以て、驗(しるし)となすべし」と謂ひて、懐中より明鏡二面を出し畀(あた)へ去る。彦雄、齋戒して靈畤(まつりのには)を河の辺(ほとり)に定め、老人授くる所の鏡を松の枝(え)に掛け、三日三夜北面してこれを祈る。

~『豐日別宮傳紀』~


「三葉の松」と「闇無濱」の地名譚

 その満願の日の未明、東方から白雲に乗り「日輪の像」【太陽光を後光として】に照らされる女神があらわれ、「三葉の松」の上から、あたかも昼間のようにあたりを明るく照らしました。これが、御神木の「三葉の松」と「闇無濱」の地名譚です。


 滿日の未明に日輪の像を戴ける神女、白雲に乘(の)り東方より三葉の松の上に降る〔此の時より三葉の松、神木となす。今に存す〕。其の光四隅を照し、恰(あたか)も日中の如し。
~『豐日別宮傳紀』~


老人、瀬織津姫神として顕現

 その女神が申し上げるには「汝は天つ神の遠孫であるため心も素直である。日向國よりこの國に来て、百姓を導き、…(中略)…我は天照太神の荒魂の瀬織津姫神である。この豊日別宮と同じ宮に鎮座して、遠い蕃の寇を防ぎ、天の災いもはらい除けようと思う。先日、汝に授けた鏡は2柱の神の影である。これを斎祭せよ。万の事も2柱の神の神告である」と言い終わると、そのまま白龍になって飛び去りました。今、その飛び去った所を「龍筒瀨(りうづせ)」といいます。彦男は歓喜して神を手厚く祀り、多くの里人は神の示現の姿を見て、大変不思議にありがたく思い、社殿を中津川の東に造営し、神鏡を安置しお祀りしました。


彦雄、再拜稽首す。太神(おほみかみ)告げて曰(まをさ)く、「汝(いまし)は天神(あまつかみ)の遠孫(をちみまご)なる故(ゆゑ)に、心神(こころ)も正直なり。日向國より此の國に來り、百姓(おほみたから)を導き西の偏土(ほとりのくに)と雖(いえど)も安く鎭(しづ)め仕へ奉(まつ)る叓(こと)を、天祖神(あまつみおやのかみ)知食(しろしめ)す。吾は天照太神(あまてらすおおみかみ)の荒魂(あらみたま)、瀨織津姫神なり。此の豊日別神と同じ宮に鎭(しづま)り座(ましま)して、遠き蕃(ほとり)の寇(あだ)を防ぎ、天の災地の災をも攘(はら)ひ除かむと思ふ。先の日、汝に授けの明鏡は二柱の神の影(みかげ)なり。宜しく齋(いつ)き祭禮(まつる)べし。萬(よろづ)の叓も二柱の神の告(みつげ)なり」と云ひ訖(をは)りて、即ち、白龍と現じ金光映徹して飛び去る〔其の處、龍筒瀬と名づく。今に存す〕。彦雄、感喜隨に徹し、頭面禮足す。神の現形の日、諸人(もろびと)見て甚(はなはだ)奇異(あやし)とす。故に衆人(もろびと)力を戮(あは)せ社(やしろ)を中津河の東に営み、神鏡を安置し奉りこれを祭る。彦男の子、奇彦(くしひこ)、專(もは)ら神祠に仕ふる事を業(わざ)とす。

~『豐日別宮傳紀』~


「霊烏石」と神託

 崇神天皇の御代、奇彦の時、1人の児童に神懸りして「私は、西の海の中津瀬に出生し、この場所に姿をあらわした。今からこの場所を「中津川」と名づけよ。昔を想うに遥かに遠く久しい。今から、ここに鎮まり中津川の川合の沖の海の潮合のほとりに居て、2日も3夜も昔のことを偲びたい」と歌い舞して倒れ伏せました。

 この神託を受けて里人は相談しあい「神託に疑いなし」と思って、奇彦と児童とともに北浜の御崎に歩いて行くと、白烏が渚の石の上に飛んで来ました。この石を「霊烏石(れいうせき)」といい(現在も闇無濱神社の豊日別宮と祇園八坂宮の間の後方にあり)ます。

 児童がにわかに叫んで、「ああ、これは川合の潮合の所だ」と。里人らは神託のままに葦葺きの権殿(かりどの)を造って、3月5日、御神体を御崎の行宮に渡御して神膳と神酒などを献上して、神楽を奏上しました。

 この夜、権殿前の海上に龍灯が2行(つら)に燃え盛り、祀り庭を昼間のように照らしました。龍灯を見た人たちは驚き怪しんで、その翌日に龍筒瀬に行って、龍神に神供を献上し船中で神楽を奏上しました。

 その後、1人の美女が水晶の美しい玉を赤い袖に包んで神前に献上しました。奇彦が怪しんで名を問いましたが、答えずにどことも知れず姿を隠しました。権殿に2夜3日宿泊し、本宮に還御しました。以来、毎年この祭りが行われるようになりました。


崇神天皇御宇、太神(おほかみ)、兒童(こわらべ)に憑(かか)りて宣(のたまは)く、「吾れ西の海の中津瀨より化生(なりあれ)て、此の所に迹(あと)を埀(た)る。今より此の處を中津川(なかつがは)と號(なづ)くと。昔を想ふに悠(はるか)に遠く久し。今(いま)(ここ)に鎭り居て、中津川の川相(かはあひ)に澳津海(おきつうみ)の潮相(しほあひ)の辺に、二日も三夜も到りて、今を以て古(いにし)へを見む」と歌舞して倒る。是に於て、郷人(さとひと)(はかり)して曰(いは)く、「神託(みつげ)疑ひ無し。」然れども未だ通ぜざる事有り、因りて奇彦、兒童と共に、北濱の御崎に至る。忽ち白烏(しろからす)、州崎の石上に飛び降る(此の時より霊烏石[れいうせき]と號く有り)。兒童見て俄かに叫びて曰く、「呼嗚(ああ)是れ川相潮相の處なり。」告げて亦(また)(ものい)はず。郷里の耆老、神託に感じて、此の處に葦葺(あしぶき)の権殿(かりどの)を構え、三月五日御神体を御崎の行宮(あんくう)に渡し奉る。神膳神酒(みけみき)等を獻(たてまつ)り神樂(かぐら)を奏(まを)す。此の夜、権殿の海上に龍燈、二行(ふたつら)に燃ゆ。祭庭白日の如し。聚(あつま)り観る者、甚(はなはだ)驚怪す。明日に至り、神供を龍神に獻り、龍箇瀨に至りて舟中より神樂を奏す。其の後、美女一人水晶の璞玉(あらたま)を紅(あか)き袖に包み、神前に獻ず。神官怪みて其の名を問ふ。答へず。諸人の群中に紛(まぎ)れ入りて形を隠る。権殿止宿二夜三日にして還御、此の時より毎歳是の祭在り。

~『豐日別宮傳紀』~


海津見神の神託と鎮祀

景行天皇4年(74年)3月、里人が中津川の東岸で遊んでいると、3歳の童児がにわかに狂い、並みの上を陸上のように走って来て、下御崎の海に立ちました。この場所は海童崎、または海祖崎といいます。童児は「吾は檍原(あはぎはら)の潮の中に生まれた神、名は中津少童神(なかつわたつみのかみ)。昔からこの場所に住んでいるが、吾を知る人はいない。今から豊日別荒魂宮(とよひわけあらたまのみや)に住もうと思う。それで今、ここにあらわれた。」といい終わって倒れました。この神託で豊津彦は、中津少童神、底津少童神、表津少童神の三神を「豊日別荒魂宮」にお祀りし、豊日別國魂宮は、豐日別國魂神瀨織津姫神とあわせて5柱の神を祀る神社になりました。


景行天皇四歳甲戌三月。郷里の諸民、中津川の東岸に於て終日、逍遙す。ときに三歳の兒童、俄に狂言して波を走る事、陸地(くがち)の如くにして下の御崎に到り海中に立つ。此の處、海童崎と號く。又、海祖崎とも號く。西に指(ゆびさ)して云(のたまは)く、「吾は是れ檍原(あはぎはら)の潮(うしほ)の中に生(あ)れます神、號は中津少童神(なかつわたつみのかみ)。昔より此の處に住むと云(い)へども、我を知る人無し。今より豐日別國魂荒魂宮(とよひわけあらたまのみや)に住まむと思ふ。是の故に今爰(いまここ)に顯(あらは)ると、云(い)ひ畢(をは)りて倒る。此の神託に因(よ)りて豐津彦、即ち中津少童神、底津少童神、表津少童神の三神(みはしらのかみ)、本宮と合せ祭りて神體を鎭座し奉る。以て上五座の神なり。

~『豐日別宮傳紀』~


景行天皇の詣宮と四座の神の鎮祀

 景行天皇12年9月、天皇が九州の賊徒の討伐をされた時に、物部夏花(もののべのなつはな)を派遣され、大勝彦(おほすぐりひこ)を召して戦勝を祈られました。この時、夏花が「この国は、辺境にあるが皇命に従わない者はない。土蜘蛛がいて、自己の強力任せに、山や川の険しい要害に居て人民をかすめる。朕は、兵を動かしこれを討伐したい。…中略…武甕槌神、經津主神、天兒屋根神、別雷神を祀れ」と4柱の神威による戦勝を祈るように命じられました。勝彦は、弟の永彦ら12人とともに7日間の祈祷をすると、土蜘蛛はことごとく滅亡しました。景行天皇は重ねて幣帛を勝彦と神人らに賜い、勝彦は萱葺の社殿を本宮の側に造営し、4坐の神を祀りました。


同十二年壬午九月。天皇、物部夏花を遣(つかは)しめて、豐日別宮に詣(いた)らしむ。夏花、中津に到り、大勝彦を召して詔(みことのり)を宣(の)べて曰く、「此の國、辺境に在りて皇命に從はざる者無しと雖(いえど)も土蜘蛛(つちぐも)在りて己が強力を恃(たの)み、山川の險(けわ)しき要害に居て人民を椋(かす)む。朕、兵(いくさ)を動かしこれを伐(う)たむこと安し。然れども百姓(おほみたから)の愁(うれ)ひ鮮(すくな)からず。天皇、畏(おそ)るる所なり。今、神祇(かみがみ)の靈之威(みたまのふゆ)を頼みて、甲兵を煩(わずらは)ず賊虜(あだ)を誅(つみな)はむ事、神の手に有り。汝、勝彦、皇命を以て大神宮に武甕槌神、經津主神、天兒屋根神、別雷神を祀れ」と。勝彦、永彦、神人十二人、共に神宮に参籠して一七日(なのか)(これ)を祈る。已(すで)にして土蜘蛛の賊徒等悉く滅ぶ。天皇、左右に詔して、重ねて幣を大勝彦、神人に賜ふ。勝彦、國民に命じ、萱葺の社を本宮の左右に造る。四座の神の神躰を安置し奉る。此のとき、三社南西に相並び、神威益々新なり。左の御殿、兒屋根命、別雷神。右の御殿、武甕槌神、經津主神なり。

~『豊日別宮傳記』~


 以上が、中央の本社にお祀りされている神々の鎮祀までの御由緒です。住吉宮と祇園八坂宮についてはまた後日、紹介させていただきます。


 豊前・豊後の産土神として鎮祀され親しまれてきた「豊日別國魂神社」(闇無濱神社)は、宇佐神宮が造営される遥か昔から鎮座し、宇佐國造(うさのみやつこ)も垂仁天皇33年(4年)8月に参詣し神前にて神代以来の話をされたことが『豊日別宮傳記』に記されています。私的には、この闇無濱神社を「豊前國一宮」にしたいところです(笑) 他にも、奈良時代の僧、行基(ぎょうき)や歌人の柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)など多くの著名人が参詣した鎮座2100年を越える古社です。