これから、往古の昔、「とよくに」とよばれた、生い立ちの「ふるさと」を発見するために歩き始めます。

豊國」(とよくに)という地域で出逢った歴史、豊かな自然、風景、祭り、ひとびとの暮らしなど、そんな魅力を探しながら自由気ままに掲載していきたいと思っています。


豊前・豊後を、そして、私の遠祖の「ふるさと」と伝えられる日向國(ひむかのくに)【現・宮崎県】、そのほかつながりのある日本全国の各地域にお邪魔することもあります。


豐國(とよくに)」という地域について、『古事記 上巻』には…。

伊耶那岐命(いざなきのみこと)と伊耶那美命(いざなみのみこと)が「筑紫嶋(つくしのしま)」《九州》を生み、そのうち「豐國謂豐日別」【豐國(とよくに)を豐日別(とよひわけ)と謂(い)ひ】と記されています。


往古は「豐日別(とよひわけ)」、景行天皇の御宇(71~130年)に「豐國(とよくに)」とよばれるようになり、その後は「豐前國」と豐後國」に分置されました。分置の当初は、「豐前國」を「とよくにのみちにくちのくに」、「豐後國」を「とよくにのみちのしりのくに」とよび、後に音読され「ぶぜんのくに」・「ぶんごのくに」とよばれるようになりました。


『豐後國風土記』に伝えられる「豐國」の地名譚。

豐後國者、本與豐前國合為一國。纏向日代宮御宇、大足彦天皇。詔豐国直等祖菟名手、遣治豐國、往到豐前國仲津郡中臣村。于時、日晩僑宿。明日昧爽、忽有白鳥從北飛來、翔集此村。菟名手、即靭僕者、遣看其鳥、鳥、化為餠。 片時之間、更化芋草数千許株。花葉冬榮。菟名手、見之為異、歓喜云。化生之芋、未曾有見。實至德感、乾坤之瑞。 既而参上朝庭、挙状奏聞。天皇於茲、歡喜之有、即耶兎名手云。天之瑞物、地之豐草。汝之治國、可謂豐國。重賜姓、袁豐國直。因袁豐國。後分両國、以豐後國爲名。


これを訓読すると…。

【豊後国は、本(もと)、豊前国と合す一つの国たりき。纏向日代宮(まきむくのひしろのみや)の御宇、大足彦天皇(おほたらしひこのすめらみこと)。豊国直等(とよくにのあたひら)が祖(おや)、菟名手(うなて)に詔(の)らして、豊国を治め遣(しめ)たまひしに、豐前國仲津郡中臣村に往(ゆ)き到(いた)りき。その時に、日晩(ひく)れて僑宿(かりやどり)しき。明くる日の昧爽(よあけ)、忽(にわか)に白き鳥あり、北より飛び来りて、この村に翔(かけ)り集(つど)ひき。菟名手、すなはち僕者(しもべ)におほせて、その鳥を看しめしに、鳥、餅と化為りき。片時の間に、また、芋草(うも)数千を許す株と化(か)はりき。花と葉と冬に栄えき。菟名手、見て異(け)しきと、歓喜(よろこ)びていひしく。「化はり生ふる芋は、未だ曾(かつ)て見しこと有(あ)らず。実(まこと)に至徳の感、乾坤(あめつち)の瑞(たまもの)なり」と。やがて朝廷に参上りて、状を挙げて奏聞しき。天皇、ここに歓喜びて、すなはち菟名手に勅りたまひしく、「天(あめ)の瑞物(たまもの)、地(つち)の豊草(とよくさ)なり。汝が治むる国は豊国といふべし」と。重ねて姓(かばね)を賜ひて、豊国直(とよくにのあたひ)といひき。よりて、豊国といひき。後に両つの国に分かちて、豊後の国をもちて名となせり。】


 この『豊後國風土記』によれば…。豊後国は、もと豊前国とあわせて一つの国でした。纏向日代宮【現・奈良県桜井市穴師の北部】に即位(西暦71年)された大足彦天皇(景行天皇【『古事記』には大帯日子淤呂和氣天皇(おほたらしひこおしろわけのすめらみこと)と記される】)の詔勅に、豊国に遣わされた菟名手が、「豐前國仲津郡中臣村」【現・福岡県行橋市南泉の草場神社の周辺とされる】に到着したときのこと、日が暮れたので、この地に宿泊。その翌日の早朝に、「白き鳥」が北の方から飛び集まってきました。菟名手の従者に、その鳥を見てくるように遣わせると、その鳥はに変化し、また一瞬で数千もの「芋草(うも)」【サトイモ】の株に変化しました。それを植えると、冬にもかかわらず葉が生い茂り、花が咲き、芋草は大豊作になりました。この事柄を菟名手が朝廷に状をもって報告すると、景行天皇はよろこばれて、「天(あめ)の瑞物(たまもの)、地(つち)の豊草(とよくさ)なり。汝が治むる国は豊国といふべし」との詔勅と、菟名手に「豊國直」の姓を授けれました。これ以来、「豊國」となり、後に2国に分置され「豊後國」(と豊前國)と名づけられたと伝えられています。


※参考までに…。

「豊前國」

企救郡…きく。現・北九州市の門司区、小倉北区、小倉南区、八幡東区の東端部。

田河郡…たかは。現・田川(たがわ)市と赤村、大任町、川崎町、香春町、添田町、福智町。

京都郡…みやこ。現・行橋市の今川の北部、苅田町(かんだまち)、みやこ町。

仲津郡…なかつ。現・行橋市の今川の南部、築上町の西部。

築城郡…ついき。現・築上町の東部、豊前市の一部。

三毛郡…みけ。現・豊前市の大部分、上毛町(こうげまち)、吉富町(よしとみまち)、中津市。

宇佐郡…うさ。現・宇佐市と豊後高田市水崎。

「豊後國」

日田郡…ひた。現・日田市。

纏向日代宮御宇大足彦天皇。征伐球磨贈於。凱旋之時。発筑後國生葉行宮。幸於此郡。有神。名袁久津媛。化而為人参迎。弁増国消息。因斯袁久津媛之郡。今謂日田郡者訛也。」(『豊後國風土記』)

纏向日代宮御宇、(景行)大足彦天皇。球磨贈(くまそ)を征伐して、凱旋の時、筑後國の生葉行宮を発し。 この郡に幸して。神あり。名を久津媛(くつひめ)といふ。人と化して参り迎ふ。因りてこれを久津媛(くつひめ)の郡といふ。今に日田郡といふは訛りなり。】


玖珠郡…くす。現・玖珠町、九重町(ここのえまち)

此村有洪樟樹。因袁球珠郡。」(『豊後國風土記』)

【この村に樟樹(くすのき)洪てある。因(よ)りて玖珠郡という。】


直入郡…なほいり。(なおいり)現・竹田市。

郡東桑木村。有桑生之。其高極陵。枝幹直美。俗曰直桑村。後人改曰直入郡。是也」(『豊後國風土記』)

【郡の東の桑木村、桑の生てあり。その高さ極めて陵(たか)く、枝幹(えだみき)直(なほ)美し。俗に直桑村と曰ふ。のちの人、改めて直入郡と曰ふ。これなり。】

   

大野郡…おほの。現・豊後大野市。

此郡所部。悉皆原野。因斯名曰大野郡。」(『豊後國風土記』)

【この郡、所部ことごとく原野なり。因りてこれ大野郡といふ】


海部郡…あまべ。現・大分市の一部(大在、坂ノ市、旧・佐賀関町)、佐伯市、臼杵市、津久見市。

此郡百姓。並海辺白水郎也。因曰海部郡。」(『豊後國風土記』)

【この郡、百姓は並、海辺の白水郎なり。因りて海部郡といふ。】


大分郡…おおいた。現・大分市の大部分と由布市の一部(旧・庄内町、旧・挾間町)。

纏向日代宮御宇天皇。従豐前国京都行宮。幸於此郡。遊覧地形嘆曰。廣大哉。此郡也。宜名碩田国碩田謂。今謂大分。斯其縁也。」(『豊後國風土記』)

【纏向日代宮御宇、(景行)天皇。豐前国の京都行宮より。この郡に幸して。遊び地形を覧(み)て嘆て曰(のたまは)く。広大なるかな。この郡なり。名を宜て碩田国、碩田(おほきた)といふ。今は大分(おほいた)といふ。これその縁(ゆかり)なり。】


速見郡…はやみ。現・別府市、由布市の一部(旧・湯布院町)、杵築市の一部、日出町(ひじまち)。

纏向日代宮御宇天皇。欲誅球磨贈於。幸於筑紫。従周防国佐婆津。発船而渡。泊於海部郡宮浦。時於此村有女人。名曰速津媛。為其処之長。即聞天皇行幸。親自奉迎。奏言。此山有大磐窟。名曰鼠磐窟。土蜘蛛二人住之。其名曰青白。又於直入郡祢疑野。有土蜘蛛三人。其名 曰打猿八田国摩侶。是五人。並為人強暴。衆類亦多在。悉皆謡云。不従皇命。若強喚者。興兵矩焉。於茲天皇遣兵。遮其要害。悉誅滅。因斯名曰速津媛国。後人改曰速見郡。」(『豊後國風土記』)


國埼郡…くにさき。現・豊後高田市の大部分、国東市(くにさきし)、杵築市の一部(旧・山香町)。

纏向日代宮御宇天皇。御船従周防国佐婆津。発而度之。遥覧此国。勅曰。彼所見者。若国之埼 因曰国埼郡」(『豊後國風土記』)

【纏向日代宮御宇、(景行)天皇。御船で周防国の佐婆津より。度(わた)り発て。 この国を遥に覧るに。 勅曰(のりたまは)く。彼(か)の所を見るは。もしや国の埼。因て国埼郡といふ。】

このうち、特に宇佐郡、國埼郡、築城郡、三毛郡、京都郡、仲津郡を中心に掲載をしていきます。

今日は、ブログ開始のご挨拶まで。それでは、これからよろしくお願いいたします。