わが家の暮らし


もちはもち屋、豆腐は豆腐屋で

 

 波乱万丈なすべり出しの藤井豆腐店だったが、ご贔屓のみなさんや、京田さんのような人徳者の助けもあって、その後は、ほぼ順調に、軌道に乗っていった。

 藤井の豆腐は、一度食べれば味の良さが分かり、お客さんからは何度でも買ってもらえた。いまも当時も、東富山は大企業の工場が近くにあり、わが家が売店に納入することもあれば、勤め帰りのお客さんが立ち寄ってくれることもあり、次第にお得意さんは増えていった。

 

  だが、たった一丁の豆腐といえども、あなどるなかれ。

 日々、やりとりするなかで、豆腐屋の個性、お客さんの個性が、互いに見えてくるものだ。

 

 いちど、こんな事があった。

 すこし離れた集落の農家で、息子さんに結婚が決まったお客さんがあった。そこのおくさんは、町から嫁いできたお嫁さんを自慢に思っていたようだ。当時は、まだ女性が会社勤めをするのはめずらしく、会社帰りに買ってきてくれる食料品が美味しいのだという。

 

 父が豆腐をすすめると、

「なーん、嫁はんが会社の帰りに、おかず買うてきてくれるもん。豆腐もそこの店で買ってくるがいぜ。そこなちの豆腐もうまいし、うちはそんでいいが。あんたんとこの豆腐もおいしかれど、なーん、要らんちゃ」

と、あしらわれた。昭和30代、町の方では、スーパーを小規模にしたような総合食料品店が、多様な食材を一つの店で扱うようになっていた。

 父は、そのおくさんの言葉を、

「そいがけ、そんなうまい豆腐ながけ。そりゃあ良かったのう」

と軽く受けながした。

 

 夏になった。

 水の良さが決め手となる豆腐にとっては、勝敗の別れ目となる季節でもある。

 父に面と向かって、「あんたんとこの豆腐、なーん、要らんちゃ」と言った農家の奥さんが、父のところに豆腐を買いにきたのも、夏のことだった。

 

 なんでも、町の店で売っていた豆腐が、夏になって、味が落ちて、食べる気がしないと息子さんが言うのだそうだ。そのうち、「藤井の豆腐はうまい」という噂を聞きつけたお嫁さんが、しゅうとめであるこの奥さんに、藤井の豆腐を買ってきてくれと頼んだそうだ。

 おくさんは、村に豆腐を売りに来た父に、ばつの悪そうな顔で、

「息子が食べたい言うとるもんで、その豆腐もらえんけ?」と言った。

 父は、申し訳なさそうに、そのおくさんに、

「ありゃー、この豆腐、ぜんぶ注文ながやちゃ、もう行き先決まっとるがで、すまんのう」

と答えた。

 

 なんにゃ、注文品なこっちゃ。

 父は、その日ほとんど、そんぐりそのまま豆腐を持ち帰ってきた。

 父の性格から、本気で腹を立てていたとは思えず、ましてや、そんな些細なことで溜飲を下げるとは考えられず、おそらく父独特の茶目っ気というか、いたずら心だったのだろう。

 

 しばらくすると藤井豆腐店に、若い夫婦が訪れた。

 「お宅のお豆腐、たいへん美味しいそうで、ぜひ売ってくださいませんか?」と言う。あの農家の息子さん夫婦だった。ふたりはさらに、

 「今後は、厚揚げやがんもどき、お宅の店で扱ってるものは全部、お宅で買いますから、どうかうちにも売ってください」と言う。

 もちろん、父も母も、よろこんで藤井の豆腐をお二人に売った。

 若夫婦は、うちの店では作らず、よそから仕入れている蒟蒻のような商品でさえ、うちで買ってくださるようになった。

 

 商売は得てして浮き沈みがある。とくに個人商店は、ほんの微風が吹いただけでも、波に揉まれる小舟のようだ。

 もうかったように見えていても、次の日、お客さんが来てくれるかなんて、誰にもわからない。父と母は、娘である姉とわたしには「わが家は貧乏」と教え込んだ。いまは儲けが多くても、豆腐が売れなければ、すぐ家計に響く。

 日頃から贅沢をせず、質素な暮らしぶりに慣れていれば、商売に回せるお金が増えると考えたのだろう。幼かったわたしは、両親の言う通り、わが家は貧乏なのだと信じていた。

 

 お客さんが増えていくにしたがって、「貧乏」なはずの藤井家に、テレビ、洗濯機、家庭用冷蔵庫など、当時、主婦たちがあこがれた家電製品が揃っていった。

 

 

町の銭湯

 

 幼いころは、どの町にも銭湯があった。

 わが家も、長屋住まいのため、長らく内風呂を持たず、歩いて近所の銭湯に通ったものだ。

 

 銭湯の玄関に入ると、家族は男湯と女湯に別れ、「番台」でお金を払って奥の脱衣場に進む。脱衣場では脱いだ着衣を籠に入れ、手拭いやタオルで腰を隠して浴場へ。鍵付きロッカーが設置されるのは、かなり後年の話だ。

当時、番台は、脱衣場の男湯側も女湯側も見ることができ、マナー違反の客や盗難や事故がないか、監視の役目も果たしていた。

 薄く立ち込める湯気の向こうには、大人が数人入れる大きな湯船と、髪や体を洗う広い洗い場がある。

 洗い場の壁の向こうは男湯の浴場だ。壁のしきいを越えて、男たちの話す声が、女湯まで反響してくる。女湯は女湯で、言いたいことを山ほど抱えたおかみさんたちが、家事のこと、家族のこと、近所付き合いのことなど、互いに背中を流し合いながら、話に花を咲かせている。

 

 

 銭湯は、大人たちの格好の社交場であるとともに、子どもにとっては社会勉強の場でもあった。親以外の大人たちの会話から、社会のおきてを、見様見真似で学ぶことができる。

 こんな銭湯を、子どもたちは、親しみを込めて「お風呂屋さん」と呼んでいた。

 町のお風呂屋さんは、わたしも大好きだった。広い浴場には、たくさんの手桶と椅子が並び、自宅では見られない光景に、ついついはしゃいでしまう。

 

 

 その日、母からは、

「洗い場で遊ぶときは、他の人に迷惑が掛からんようにしられ(しなさいね)」

と言われていた。

 わたしは、石鹸で体を洗い始めた母のそばで、つるつる滑る床の感触を楽しんだり、手桶にお湯や水をくんでは別の手桶に移したり、ひとり遊びを満喫していた。

 そんなわたしの隣では、町内のおばちゃんが、勢いよく手桶のお湯を体を流して洗っている。そのうちお湯のしぶきが、わたしの髪や体にもがかかってしまった。

 おばちゃんは、

「あら、かんにんしられ(勘弁してね)」と謝ってくれたものの、不快に感じたわたしは返事もせずに、わざといやな顔をつくってみせたものだ。

 

 そのあとも、銭湯の広い洗い場でのひとり遊びを、わたしは存分に楽しんだ。

 喉が渇いたように思って、水を飲もうとすると手がすべって、別の見知らぬ女の人に、バチャッと水を掛けてしまった。

 女の人は驚いて振り向いた。

 わたしは、消え入るような声で

「ごめんなさい」と謝った。

 叱られることを覚悟したが、その人は柔和な笑顔をつくり、

「なーん、つかえんよ(大丈夫よ)」と言ってくださった。

 それは、お地蔵さまのような、と言えばいいだろうか。優しい笑顔からは、言葉以上の温かな感情が伝わり、わたしの小さな胸に広がった。

 

 自分はよその人にいやな顔をしたのに、この女の人は優しい笑顔で許してくれている。さきほどの自分の行いが、恥ずかしく思われた。

 

 わたしは風呂から出る前に、さっきいやな顔をしてしまったおばちゃんに、ひとこと謝ろうと、姿を探したけれども見つからなかった。

 脱衣場で待っていた母が

「どうしたが?」と聞いたので、

「おばちゃん探しとったが」と答えると、

「あんたにお湯かけたおばちゃんけ? ははーん。だから、なかなか来んかったんだね」と、こちらを見透かしたように言う。

 母は、たとえ遠くにいても、わたしから目を離すことはなく、わたしがしたことはすべて知っているのだと思った。

 

 わたしは銭湯から家に帰ってきても、さっきの女の人の優しいほほえみに、魅了されたままだった。

 わたしにもあんな笑顔をつくれるかな、と思って、奥の仏間で、手鏡を見ながら口の端を上げたり下げたりしてみた。ところが、なかなか決まらない。悪戦苦闘していると、仕事を終えた父が仏間に上がってきて、

「幸子、お前、さっきから何やっとんがか(何をしているのか)」

と尋ねてきた。

 わたしは、銭湯で隣にいた女のひとに、水を掛けてしまったこと。そのときすぐに謝ったら許してもらえたこと。女のひとの笑顔がとても優しく美しく、わたしも優しい気持ちになったこと。自分も人に対してそんな笑顔をしたいことを、熱をこめて父に話した。

 

 わたしの話を聞くうち、父の顔にも慈愛に満ちた表情が浮かび、

「幸子よ。お前、いい勉強したのう」

 と言ってくれた。

 いい勉強をしたじゃないか、という父の言葉は、学校の勉強が苦手なわたしには、ご褒美のようにうれしくて、

「うん! わたし、いい勉強したが(勉強したよ)!」

 とはずむ声で答えた。

 

「人の顔は人生を変える」という言葉があるそうだ。いい笑顔は、周囲の人の雰囲気を変え、さらには人生も変えるということを、最初に学んだのは、近所の銭湯で出会った、見知らぬ女のひとからだった。