昼飯→作り置きキノコ炒め、煮卵、海苔チーほうれん草カニカマ
夜飯→作り置き尽くしスペシャル、ミミガー、シメサバレタスサラダ
飲物→水、炭酸水、黒酢ジュース、淡麗500ml、バランタイン(ロック)、ジョニ黒(ロック)
仕事→某歴史本の編集、某アダルト雑誌の編集
どん。
「ホッペにチューで撮ろう!」
と、プリクラを撮る際に、そう一言いうと、必ず実行してくれるマイプリンセスたち。
思春期まっしぐらの時でも是非この方向性を維持して欲しいと思います。
それがパパの夢である。
よっしゃ、食べよう。
沖縄の友人から送られてきた魚肉ソーセージとサラダの作り置きさん。
とうがらし仕様というだけあって辛美味い。
作り置きと、新たな作り置きの煮卵君。
いい感じにつかってあって美味しかった。
シメサバのレタスサラダと、作り置き大放出。
こんだけ作り置いてるのがあると、帰宅後にサラダだけ作れば晩酌ができるという喜び。
コンビ二でいちいちツマミを買わないほうが得なのか、スーパーで食材をいちいち買うほうが損なのか。
野菜が高いだけにそのあたりがいまいち掴みにくい今日この頃(笑)。
いえい。
久々にアニー・ホールを観た。
大ファンであるウディ・アレン監督がはじめてアカデミー賞を受賞した作品であり、当時のアメリカで大ブームとなった映画である。
登場するファッションや恋愛観を真似る観客も多く、アニーホール・ルックなる呼び名をつけられた着こなし術も大流行したほど。
さらに映画技術においても、長回しや第四の壁を打破する手法を浸透させるきっかけにもなり、映画界においても革命的といえる映画であったのだ。
そんなアニーホール。
最後に鑑賞したのは20代中頃だろうか。
結婚したばかりか、する前か、いずれにせよ、間違いなく今よりも精神的にもだいぶ若々しく、なんとなくウィットに富んだ軽妙な会話劇に魅了され、オシャレな世界観の虜となっていたような気がする。
けれども、映画というのは、観る年代やその時の自分が置かれた状況、精神状態など、あらゆる条件によっても観た時の印象や感動が変わるもの。
それが映画の良さであり、特にウディ映画にかんしては、観るたびにまったく別の感情を抱かせてくれるので、何度でも繰り返し観ることができてしまう。
今夜のアニーホールも、一度鑑賞を終えた後、またすぐにもう一度はじめから観たくなってしまった。
ダイアン・キートンがラブリーすぎるのはもちろんのこと、とあるカップルの出会いと別れを、何気ない日常の一コマ一コマを切り取りながら、90分間飽きさせず、いや、むしろ、いつの間にか2人の恋の行方に感情移入させられてしまうほど、巧みな脚本・演出に、もはやひとりで「くぅーたまらん!」、「かっこいい……」などとつぶやきながら、完全にウディワールドにどっぷりつかっていたわけだ。
初デートの時……、歌のオーディションに失敗したダイアンは、悲観的になりながら足早に歩いていた。
それをなだめながら追いかけるウディ。
この後、レストランへ行って部屋に泊まるような流れになりそうなのだが、このままではいつまでもグダグダな展開になりそうだとふんだ彼は、小走りに進んでいくダイアンの肩をつかんで止まらせると、向かい合わせてこう言った。
「ここでキスしよう」
もちろん、突然のことにダイアンは驚きを隠せない。
畳み掛けるように、「キスをして、気を静めてから、食事にしよう」的なセリフ。
それを聞いたダイアンは、今まで必死に慰めてくれていた彼からの意外すぎる一言に、もはや寸前までの悩みなどどうでもよくなってしまい、そのまま彼に身を委ねたのである。
ザ・路チュー!
このシーンがたまらんわけですよ。
初のキスをそう奪うか! という、もはやスマートだし粋だし美しいしで、言うことなさすぎて思わず画面に向かって拍手喝采してしまうのです。
そんな素敵カッポーな2人だが、よくあるカッポーと同じように、別れの時がやってくる。
ラストシーンのナレーションは、オープニングでウディが語っていた長いセリフともリンクしてくるのだが、男と女の関係について、こんなふうに締めくくっている。
精神科医に男が、
「弟は自分がメンドリだと思い込んでます」
医師は「入院させなさい」
男は「でも卵は欲しいのでね」
男と女の関係もこの話に似ています。
およそ非理性的で不合理なことばかり。
それでも付き合うのは卵が欲しいからでしょう。
どん。