それぞれの国により、記事になる光景や批判記事ができない光景があります。

それであれから、記事になる光景が正義というレベルであるか、べつでしょう。

市民の立場、市民が選択する国家、権力を手にするために得た国家、それぞれに情景がことなるでしょう。

個人、第三者、そして、市民というもの、議員というもの。

拉致は、帰らない人を見るところで、許されないという行為だという批判。批判しても、それで解決するものでない。

国防とは、拉致を予防、阻止することだ。

首相が、拉致された両親へ、手を差し伸べる行為より、国防を優先するべきでしょう。

慰安婦問題は、政治の道具になった、日本での記事。

慰安婦の方へ、財産没取した勝国、慰安婦へ国賊だという批判をした戦勝国、今では、慰安婦は80年前のことを、反戦国へ責任転嫁した。

それを政治道具にし、70年前の恨みだということで、豊かな生活、大統領と食事会という。

国家とは、庶民の選択で、そこに少しの自己犠牲を受け入れるものだ。それをいつの時代でも、拒否した人は、恨みを生きがいにする。

若者に未来への目線を与えられない政治運動化した慰安婦問題。それに政治生命をかける政治家は、市民の喝采を受ける。

人生は、冬登山するくらいの用心と努力、我慢が必要です。

私は,春山登山の人生であった。それを奪ったのは日本人だという思考では、若者の未来を構築できない。

拉致問題を解決する方法は、国家正常化条約です。敵対思考では、拉致問題は永遠に解決しない。

国防をしないで、敵対行為は、政治のごまかしで、自己権力維持の叫びである。

そこで言えることは、悲劇の過去が表に出るだけです。それで、理解できる強い精神力があれば、拉致の事実を見ることでしょう。

批判をますます、強くするのであれば、相手は正当な権利だという拉致です。スパイという用語の意味では、相手は正当な権利だということでしょう。

今日も、幼児が車の事故で、死亡する。事故犯した人は、うっかりしていたという。太陽の光が眩しかったという事故。まぶしい時は、スピードを落とし、ブレーキを踏む、事故者は、アクセルを踏むという。