またこう話された。『ある人に息子がふたりあった。弟が父に、「おとうさん。私に財産の分け前を下さい。」と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。』」それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。」「何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。」「彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。」「しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。」「父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。」「立って、父のところに行って、こう言おう。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。』」「もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」「こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところやく、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。」「息子は言った。 『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』 ところが父親は、しもべたちに言った。」「急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。」「そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。」「そして、彼らは祝宴を始めた。」                                 ―ルカ15:11~24-
先週お届けするはずだった、父の日のメッセージです。毎年放蕩息子のお話をしています。このたとえ話は聖書の中でも特に有名なもので、親しまれています。内容はとてもシンプルですが、読むたびに私たちの心に大切な事を投げかけます。あるところに大金持ちのお父さんと二人の息子がいました。ある時、弟息子はお父さんに財産の分け前を要求しました。普通は財産はお父さんの死後に受け取るものですから、この息子の要求は失礼極まりないものでした。しかし、お父さんは寛容にその要求に応じました。弟は財産を受け取ると遠くに旅立ちました。そして、そこで放蕩の限りを尽くして、一文無しになってしまいました。しかも追い打ちをかけるように飢饉も訪れ、彼は豚の世話をしなければならないほど落ちぶれてしまいました。彼は失意のどん底で、お父さんの家を懐かしく思い出しました。彼はお父さんのところへ帰って心から謝り、使用人の一人としてやり直す事を決めて家に帰りました。しかし、お父さんは彼の帰りをずっと待ち続けていたのです。お父さんは弟息子の帰りを心から喜び、歓迎し、家全体の喜び、祝福としました。お父さんは弟息子に対する大きな愛を余すところなくあらわしました。しかし、よく考えるとここには不思議が満ちています。普通この役割を家でするのはお母さんです。しかし、ここではなぜかお父さんがしています。この意外性こそが、父なる神の愛の性質をあらわしているのです。また、弟息子がそうであったように、私たちは祝福と恵みの中にいると、それが当たり前に思えてしまいます。彼がちょうど失ってからはじめてわかったように、私たちもそうなりがちなので、気を付けなければいけません。また、お兄さんもこのたとえ話のもう一人の主人公です。一見すると真面目で従順で、弟に対して正当な怒りをぶつけているように見えますが、実はお兄さんの心も本心では弟と同じようにしたかった思いが見え隠れしています。弟もお兄さんも私たちの心の中をそのままあらわしているのです。シンプルながら語られている事は奥深いこのたとえ話から、皆さんは何を受け止められますか?