活動期間
1983年〜1999年
2003年〜2005年

みなさんは、このバンドをご存知だろうか。BEYOND。彼らの代表曲「海闊天空」は香港デモで今でも歌われている。
香港のスーパーバンドBEYONDは、15年前に解散してしまったが、今も人気は香港でも色褪せていない。
日本でも活動していたがろくなことできずに断念してしまったが、日本にもファンはたくさんいる。

今日はそんなBEYONDについてお話ししよう。

1983年、バンドを組んでいたボーカルの黄家駒(ウォン・カークイ)が、香港のスタジオでドラムスの葉世栄(イップ・サイウィン)に出会ったことが全ての始まりだった。お互いが別々のバンドのメンバーだったが、家駒と世栄の音楽性が一致していると分かった二人は、バンドの結成を決める。家駒と世栄を中心とし、他の仲間二人もバンドに入って本格活動を始める。

香港には当時「ロック」という文化がほとんどなかった。香港にロックバンドがほとんどおらず、ロック好きだった家駒が「ロック」という音楽を香港にも広めたいと思い結成したと思われる。

しかし人生は甘くない。次々にメンバーが脱退していく中、家駒の弟の黄家強(ウォン・ガーキョン)がベーシストとしてBEYONDに加入。さらに1985年にギタリストとして黄貫中(ウォン・クーチョン)が加入し、現在の4人に。

1987年にメジャーデビューし、そこそこ人気も出てきたとき、中国と台湾の関係をなんとなく歌ってみたと言われている「大地」が空前の大ヒットを記録。
翌年には天安門事件、中国が民主化運動をしていた時期に作られた曲のため莫大なヒット。それ以降、ヒット曲を量産していく。

しかし世間とBEYONDの方向性は違っていた。BEYONDは「ロック」をやりたいにもかかわらず、世間は「アイドル」になってくれと求め始める。メディアからも「人気ロックグループ」ではなく「人気アイドルグループ」と言った形で出される。
メンバー達はこれを嫌った。

1990年、BEYONDは活動範囲を広げる。これまで広東語と呼ばれる香港での言語でしか曲を出していなかったが、台湾、中国、マレーシアで中国語で続々に曲を出していき、知名度もガンガン上がっていく。

そんな中、1991年、この年はBEYONDにとって激動だったかもしれない。2月、全くBEYONDの知名度がないアフリカに慰問に行き、自分たちが世界の平和を訴える曲「Amani」をアフリカの子供たちと一緒に歌った。
5月、遂にBEYONDは日本に足を踏み入れる。アジアで恵まれない子供達へのチャリティーライブ「こどもえいど for ASIA」に出演するためである。その際披露した曲のほとんどが中国語であった。
9月、香港の紅ホール(日本でいう日本武道館)で5日間に渡るコンサートを成功させた。その会場に、1人の日本人がいた。その名は、爆風スランプ、サザンオールスターズが所属する事務所アミューズの会長大里氏である。
大里氏は日本で有名になればアジア一になると考え、12月にアミューズとBEYONDが契約。

1992年、山中湖というところでBEYONDは合宿を行う。そして7月、初の日本語曲「The Wall〜長城〜」を発売。この曲は大人気テレビ番組のオープニング・エンディングテーマに起用された。
9月には香港で出した曲「可否衝破」の日本語版として日本でも人気のあるロックバンド「爆風スランプ」との代表曲「リゾ・ラバ」の続編として「リゾ・ラバ〜international〜」を爆風スランプに提供。「リゾ・ラバ〜international〜」はBEYONDとしての曲として発売。さらに日本でデビューアルバム「超越」を発売した。しかし当たり前だが売れない。その故に一部の曲が日本語じゃない。しかし日本にファンはたくさんいる。そんなBEYONDは1993年に10周年を迎え、その1993年を「日本本格デビューの年」として日本での活動を開始。

1993年6月、再び日本に足を踏み入れる。新曲「遥かなる夢に」を始めニューアルバム分のレコーディングを終わらせ、待つのはその発売だった。
そんなとき、ウッチャンナンチャンと出会う。当時ウッチャンナンチャンは絶大な人気を誇っていて、フジテレビで「ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!」というゴールデンでの番組を組んでいた。フジテレビはBEYONDに「ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!」の出演のオファーを入れる。BEYONDはこの番組に出れば日本での人気は確実になると思い、「ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!」の出演を承諾する。
そして6月24日午前1時、BEYONDはウッチャンナンチャンのやるならやらねば!(以下やるやらと表記)の収録に参加した。
収録中BEYOND含む12人の出演者はてんやわんやと大にぎわい。しかし午前1時15分、事件は起きた。
渡辺正行、小宮孝泰、なべやかんら10人が左方向に密集していた為、セットの後ろにあった背景板が崩れ、家駒と内村光良が転落。病院に搬送される。内村は「崩れるような音が聞こえ、気づいたら転落していた」と語っている。
ヘルメットをかぶっていた内村は全治2週間の打撲で済むが、家駒は頭から落ちたため意識不明の重体になる。
収録翌日の25日にはNHKの音楽番組に出ることになっていた。
そして6月25日、「くちびるを奪いたい/遥かなる夢に」を発売。しかし家駒の意識は戻らなかった。

6月30日、午後4時15分、黄家駒は亡くなった。家族や他のメンバーたちに看取られての最期だったらしい。
BEYONDのメンバーと友人で最後を看取った1人である爆風スランプのファンキー末吉によると、待合室で訃報を聞かされた世栄は、ショックのあまりファンキー末吉の肩に向かい失神したらしい。
フジテレビの編成局長である村上光一の夜に行われた会見によると、訃報を知らされ病院に駆けつけた内村は「自分のせいだ」と泣き崩れたが、他のメンバーたちに「あれは事故だった」と励まされ、南原に「芸能界やめよう」と言い、芸能界引退を考えたが家駒の遺族に「あれは事故なんです!辞めないでください!!」と励まされ、復帰を決意するというシーンもあったらしい。

7月2日、家駒はBEYONDのメンバー、遺族とともに香港に無言の帰国。7月5日には家駒の葬儀が香港で行われ、1万人のファンが殺到した。出棺時には現場は大混乱。埋葬される埋葬地にも700人のファンが集まった。

7月11日、日本でも「黄家駒君を送る会」と題した追悼式が増上寺にて行われ、700人のファンが足を運んだ。追悼式にはウッチャンナンチャンも参加し、BEYONDのメンバーも参加した。追悼式では友人代表としてファンキー末吉が弔辞を述べた。その中でファンキー末吉は「あんたを超える音楽家になるよ」と誓っていた。
追悼式の後、BEYONDのメンバー3人が記者会見。その中で黄家強はこう話している。「今回の事件で兄がまた一つ教えてくれた。それは挫折した時にこそ自分の意志を強く持たなくてはならないということです。兄はずっと、僕たちの中にいます」と。さらに日本語で「僕は、大丈夫」と笑った。
会見の中でウッチャンナンチャンへのメッセージとの質問に世栄はこう答える。「今回の事件で悲しんでいると思うが我々はこの悲しみを力に変えて頑張っていくので、お互い頑張ろう」と。

BEYONDのメンバーは誰も日本を恨んだりしていない。

1993年7月、家駒の追悼アルバムになってしまった「This Is Love Vol.1」を発売。これは香港で発売されたアルバム「Rock'n Roll」の収録曲を日本語の歌詞に変えて2つに分けるということで、「This Is Love Vol.2」も製作されていたが、家駒の死により中止。さらに8月には日清パワーステーションでライブも予定していたがこれも中止になった。

1994年2月、3人になったBEYONDは日本へレコーディングをしに来る。
新曲「Paradise」と「アリガトウ」のレコーディングだ。
両方とも家駒に向けられた曲であり、同年12月に「Second Floor」と言う新アルバムを出した(「二棲後座」の収録曲に「Paradise」を足したもの)。

香港ではと言うと、1994年、「二棲後座」を発売し、本格的に活動を再開する。
1995年、「聲音」をリリース。家駒の死後の1993年、94年、95年の3年間は、まさに新生BEYONDとしての音楽を求められていた。
1996年3月3日〜3月6日までの期間、香港紅ホールで、「BEYONDの素晴らしいLive&Basic」を開催。

最終日、このライブの主題歌「素晴らしき人生(活著便精彩)」を歌い終わった後のMCで家強は、「これ本当は歌うつもりじゃなかったんだけど…」と言いながら何かを歌い出した。「天空海闊是無…」と。そう、家強が兄である家駒に向けた追悼曲「たのしくすごして(祝悠愉快)」である。家強は必死に泣くのを抑えるが、泣いてしまう。ファンと、家強の大合唱となった。そして、歌い終わって泣き崩れる家強の姿を見て貫中が声をかける。「そんなお前の姿、あいつは見たくないはずだぞ」と。そして家強は「BEYONDは、永遠に四位一体です!!」と名言を残す。その姿を世栄は泣きながら見ていた。そして家強の「海闊天空」コールにより、最後の曲「海闊天空」の演奏が始まる。最後のギターソロ、貫中が奏でるギターの音は、泣いていた。ライブ映像はDVDに収められているが、最後の貫中のギターの音と、家強が号泣している姿を見て涙線崩壊したファンも多いと思う。

それから3年後のクリスマス、香港で「Good Time Live」を行い一時的な活動休止をする。

2002年10月、またもや衝撃が走る。20周年に再結成を目指していたBEYONDの3人は、葉世栄の結婚を翌年のライブで発表するつもりだったが、その世栄の婚約者が死亡する。世栄は落ち込むが、20周年のライブは行う。

しかし2003年、今度は香港、北京でSARSと呼ばれる新型コロナウイルスが蔓延。今も日本で様々なイベントが自粛されるが、香港でもSARSの影響でBEYONDの20周年記念コンサートが中止になる可能性があったが、予定通り開催され、さらに3日間の追加公演も出された。
8月からはSARSが終息したのも兼ね、BEYOND初のツアーを中国で行い、大成功を収めた。

2004年末、またもや衝撃が。またBeyondが活動を休止すると発表した。
2005年1月末、「Beyond The Story Live」と題した解散コンサートが香港で行われ、日本を除く全アジアでライブツアーが行われ有終の美を飾った。

それから3年後の2008年、黄家駒の誕生日に合わせ家強が追悼コンサートを開催。それにはBeyondのメンバー全員登場した。

現在は再結成の意志はないが、世栄と貫中がBEYONDの曲を歌い続けている。世栄はこれまでやっていたドラムをやめ、ボーカリストに転身した。

これからの活躍を期待したい。