2016徳佐八幡宮の枝垂れ桜ー1 | 周南市 東郭の世界

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山口市徳佐八幡宮の枝垂れ桜は、今年も見事な花をつけて呉れました。
 
写真は、4月6日(水)のもので、枝垂れ桜もソメイヨシノも同時に満開でありました。
 
徳佐八幡宮の住所は、”759-1512 山口県山口市阿東徳佐中3673”でありまして、
 
国道9号線が参道を跨いでいる形になってJR山口線徳佐駅の東南500mくらいの場所で
 
す。私は、周南市から車でお参りしましたので、交差点(セブンイレブンがある)を
 
右折して500mくらい北へ行けば、信号機二つ目に、桜や鳥居があってすぐ判ります。
 
駐車場も臨時を含めて、多くありましたが、それでも満車状態なので、徳佐駅のほうへ
 
停めて参道を八幡様まで歩きました。
 
 

                         《2016.4.12 周南市 東郭》
 
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徳佐八幡宮拝殿
 
 
 
 
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徳佐八幡宮の概要が拝殿傍に掲示してありましたので、撮ってきました。
 
寿永元年(1182年)から続いているようで、当時の守護職の大内満盛が宇佐八幡宮から
 
分霊を勧請したとありますから、平安時代末期の事です。祭神には数多くの神々がみられ
 
ますが、八幡大神誉田別命(ほんだわけのみこと)で応神天皇です。
 
面白いのは、素戔嗚尊と饒速毘尊も祭神として崇敬されていることです。なぜ、面白いか
 
というと、出雲族がこの阿東(徳佐)にもやって来て水田など開墾したのではないかと
 
思ったからです。徳地の出雲神社は霊亀元年(715年)鎮座で祭神が大己貴命と事代主命
 
の2柱です。いまでは、同じ山口市にこのような出雲系の神の名前があるのは、単に祀れば
 
いゝというだけではないと思います。古代の歴史ロマンで判らない事は判りません。
 
しかし、古代の周防の国に出雲族がやって来て、この穀倉地帯の原型を造ったかと思うと
 
歴史のロマンは広がるばかりです。
 
 
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         徳佐駅から2.3分で、最初の石鳥居があります。
 
 
 
 
 
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現在、国道9号線がこの参道を跨いだ形になっていますが、国道が開通するまえは、
 
現在の徳佐駅付近が主要な道であって、この参道もそこから入っていたと思います。
 
 
 
 
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ハナニラ
 
 
 
 
 
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               第二の鳥居(国道9号線)
 
 
 
 
 
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                   民家の花
 
 
 
 
 
 
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              国道側から第一鳥居方面を見る。
 
 
 
 
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ムスカリ
 
 
 
 
 
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    参道両側は、若干高い土手になっていて主に枝垂れ柳の老木です。
 
 
 
 
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            民家の庭まで伸びた絶景枝垂れ桜
 
 
 
 
 
 
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参道は370mあり、参道両側に一斉に咲き誇るシダレザクラは、見事なピンクのトンネル
 
となる。文政8(1825)に初めて植栽された参道両側のシダレザクラは、補植、新植と
 
受け継がれ、県内屈指の桜として知られている。近隣はもとより、県外からも多くの花見客
 
が訪れる。《観光協会》


 
 
 
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徳佐八幡宮の「しだれ桜」
 

参道のしだれ桜は、文政八年(1825)に浪速から取り寄せたもので、古くから親しまれてい
 

る日本古代種の彼岸系の「しだれ桜」です。

 
現在、参道370メートルには140本の桜が垂れ下がり、可憐な一重の花を咲かせます。
 

夏には緑のトンネルが参道に豊かな木陰を作ります。

 
また、参道脇の境内公園には120本のソメイヨシノ、大島桜、少し遅れてカンザン、ウコ
 
ン、ギョイコウ(緑の桜)などが花を競います。しだれ桜は一時は文部省指定天然記念物に
 

もなっていました。現在は町教育委員会文化財に指定されています。

 
 

(神社パンフレットより)


 
 
 
 
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枝垂れ桜の枝は参道に垂れさがって、写真をとるのも順番待ちでした。
 
 
 
 
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     参道右側は、広い場所になっていてソメイヨシノなど植えてあります。
 
 
 
 
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舊縣社の碑などもここにあります。
 
 
 
 
 
 
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徳佐八幡宮 拝殿が見えて来ました。
 
 
 
 
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    参道左広場にテントの出店があり、食べ物・土産を売っています。
 
    その中に、テーブル・椅子が並べられ大勢が食事をしていました。
 
 
 
 
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徳佐八幡宮由緒沿革 


鎌倉時代の寛元二年(1244)につくられた「徳佐八幡宮草創之事」(古文書)には、次のよう
 
に書かれている。即ち、百済国聖明王第三子琳聖大子の第十四代の孫にあたると云われる
 
大内満盛公が、平安時代末期の寿永元年(1182) に、豊前国宇佐八幡宮から分霊を勧請し、
 
徳佐郷丸山に奉祀した。当時の当郷の守護久守隼人佐源光盛家(現宮司渡辺家の先祖・久
 

守・諏訪・渡辺と改姓)は、その後代々神明に奉仕して今日に至っている。

 
社伝によると、室町時代から江戸時代にかけて、社殿が火災により焼失したことがある。
 
また社地は丸山から小南・古宮山へ遷座したが、延宝七年(1679)にまたもや古宮山の社殿が
 

全焼したので、天明八年(1788)に現在地である荒神山に遷座した。

 
現社殿は、藩主毛利綱広公の造営になるもので、延宝九年(1681)には新神輿三体を萩で造ら
 

せて奉納され、現在においても同輿を使用している。

 
当社は鎌倉期より大内氏、続いて毛利氏の加護を厚く受け、戦国期には渡辺家の戦功に対
 

し、毛利元就公より大宮司職と馬具を贈られている。

 
明治六年(1873)に村社に列し、同十四年(1881)には郷社に昇格、大正九年(1920)にはさら
 

に県社に昇格する。

 
昭和九年(1934)には徳佐桜が文部省より名勝天然記念物の指定を受ける。しかし、昭和三十
 
一年(1956)、老朽のため指定を解除される。現在は阿東町教育委員会より町文化財の指定を
 

受けている。

                              (山口縣神社誌より)


 
 
 
 
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※続きます。