第2夜:缶コーヒー
★★この話は,すべてフィクションです★★午前1時。寝台特急はやぶさ号は岡山に停車した。機関士の交代と荷物の積み下ろしのための停車で,扉は開かず,お客の乗り降りはない。そのとき,B寝台個室の青年が,鍵が開かなくなったと言ってきた。熊本から乗ってきた鉄道ファンの青年で,礼儀正しく,愛嬌のある若者だ。まれに,個室の鍵が穴から抜けなくなるトラブルがあって,運悪く,彼は当たってしまったらしい。車掌室から応急措置用のCRCスプレーを持って,鍵穴にひと吹きするとすぐに,鍵は引き抜けた。車掌室に引き上げて片づけをしていると,彼が缶コーヒーを差し入れにやって来た。こういうときは断る車掌が大半だが,まさか毒でも入っていないだろう,お客の好意を受け止める意味で,ごちそうになることにしている。タブを開けてブラックコーヒーを飲むと,清涼感が広がった。すると,彼はこんなことを話し出した。自分は会話力がない・・・~~自分の家庭は小さいころから,父親が母親に対して何かあると暴言を吐いていたという。とうとう自分が大学を出て,就職をした年に離婚した。その離婚調停の席で,裁判官に,自分は結婚前から片方の耳が聞こえないということを話したと,母から聞いた。そんな大事なことを20年以上も黙っていたのが信じられなかった。でも同時に、自分の会話力のなさの理由が見つかった気がした。思えば,家では父と母と自分で,会話が弾む場面があっただろうか。父親は自分に惜しげもなく,いろいろなものを買い与えてくれた。でも,そんな自分の様子を嬉しそうに見ている父親の姿を,どこかで覚えている。そんなちぐはぐな家で育ったせいか,小中学校,高校,大学と,友達ができた思えば,すぐに去っていく。就職したら,先輩や同僚とも上手くいかない。付き合い始めた彼女は過去に二人いたが,すぐに別れてしまった。先月,父親から,突然手紙が来た。「君には迷惑をかけたね。」その一言が書いた便箋と,10000円札3枚が入っていた。こんなことをしてほしくない。謝ってほしんじゃない。もっと早く,母と自分に本当のことを言ってほしかった。そうすれば,母と自分が,父親の耳になれたかもしれないのに・・・バカおやじが・・・~~青年は,そこまで一気に話した。送ってきた30000円で,このはやぶさ号の寝台券を買って乗ってきたという。今までは,父親の悪口しか出てこなかった。でも,つい最近,おそらく,母親も自分も,父親とは再び一緒になることはないだろうが,母と自分が,父親の耳になれたかもしれないのに・・・という気持ちになったという。そこまで聞いて,思った。大丈夫。彼は,会話力を少しずつ磨いていくだろう。そう思って,また,差し入れのブラックコーヒーを飲んだ。清涼感が広がった。はやぶさ号は,岡山県を出て、兵庫県に入っていた。★★もう一回。この話は,すべてフィクションです★★