1972―4
#31(11/7)
言語無くして意識することは可能か? 少なくともこの問いを発する限りにおいては、言語を媒介として思索する。まさに思索という行為である。しかし、我々は一面において意識(内的言語)を持たぬ、あるいは意識裡からの(厳密さには欠けるが)行為を現実として在らしめている。そんな意識裡をもが人間の普遍的意識の範疇であるということが、そこにあるとするならば私は恐ろしい。
そこで宗教性、信仰性について考えるのだが… 原始信仰として幾許もその様相を変えることのない有形無形の民間信仰にそれは与することができる。そう称してよいかの是非は定かではないが、前論理的思惟性というもの。
未開社会の思惟 ~ 思惟の生成が何に由来するのか、或いは、いわゆる思惟としての思惟性の有無。そして思惟たらしめるものが、果たして行為、現象に直接的に至らしめるものか、或いはその仲介となるもの、例えば確固とした言語の存在か? そこで、いわゆる前論理的思惟から論理的思惟への特殊的or普遍的移行。
課題~古今の宗教の日常生活においての、その宗教の宗教性における普遍性とは…
#32(11/9)
どうしようか、と尋ねたら どうしようとするのか、と返ってくる
どうしようか、の問いにも 確実に時は移ろってゆき
どうしようとするのか、に焦燥が託される
自己という絶対性に 表裏の消え入るような希少性
歴史という永遠性のうちの 自己の直接的に所有する世界のなんという貧弱さ
然らずんば、思いせよ、行為せよ、と言を与えるも
無意味に億劫になっていることも事実である
しんどいといえばしんどい
何もないなら、それを是ともする
飄々と しかし…
#33
エネルギーの源は、決して食べ物ではないと思うよ。なんだろうか?
#34(11/19)
八方美人の 口先だけの とりすましもできぬ やけにもなれぬ 物思いに耽ることなく
黒くも 白くも 赤にも 青にも 混合色にも染まることなく そして染まり
所詮飛べもしないニワトリ奴が! 確かに滑稽だろう
笑いもすれ しかし 気にもする
何が何だかわかっているような わからないような
ただ理解しよう 自分の目には見えぬ けれどもわかる背中のツギ