それでは再度、陸軍特別攻撃隊神鷲隊に触れてみたい。
大陸を離れ本土に帰った父保は、昭和16年2月1日、宇都宮陸軍飛行学校教育隊付けとなり、以降鉾田陸軍飛行学校、下館教育隊、熊谷陸軍飛行学校などと場所を変えるも飛行学校の学生操縦教育助教として、あるいは操縦者錬成教育の区隊長として任務を遂行してゆく。
太平洋戦争(大東亜戦争)が始まり、やがて戦況が悪化していくなかで、ついには「教育するに航空機、燃料なく、遂に飛行場教育閉鎖。各々新部隊に配属」となり「最終戦力としての部隊」までもが編制されることとなる。つまり、父の軍歴にある「昭和20年1月25日第三練習飛行隊・鉾田教導飛行師団にありて、大東亜戦争に従事」がそれである。
茨城県の鹿島灘にほぼ近い鉾田教導飛行師団の前身は鉾田陸軍飛行学校であって、軽爆撃機あるいは襲撃機による攻撃を専らにしていた。やがて戦力の不足を補うために、教育に加え作戦行動の実施も並行して必要とされ、昭和19年6月に鉾田教導飛行師団に改編されることになる。やがて、10月には浜松教導飛行師団の富嶽隊(重爆撃機)と並んで陸軍初の特別攻撃隊である万朶隊(軽爆撃機)が編成されたことは本文でも記した。
いよいよ戦場が本土へと迫りつつある昭和20年4月、鉾田教導飛行師団は栃木県の那須野(黒磯、埼玉サキタマ)陸軍飛行場に移住するが、そこは双軽爆撃機による特攻機の実戦部隊による訓練基地となった。「敵艦体当たり特攻訓練及び夜間飛行訓練」である。そして編成されたのが神鷲隊(資料により8個隊または12個隊と隊の数が異なる)であった。さらに、その神鷲隊は岩手飛行場(後藤野飛行場)に移住し、短期間の訓練のあと各地に配属された。
父のメモ書きにある壬生、藤根、能代の飛行場名で、藤根は岩手飛行場を指すものと思われるし、出陣式の写真に記されている黒沢尻飛行場も同所だろう。壬生飛行場は栃木の那須野飛行場のすぐ近くである。秋田県の能代飛行場は東雲飛行場とも呼ばれていて、特攻訓練中に操縦を誤った機が子どもを巻き込む事故を起こした記録も残っている。
7月1日、神鷲隊第二百九十七隊の出陣式が挙行されたが、出撃は中止となった。その六名の内、東中尉、奥田曹長が黒岩伍長とともに単独で写る写真がある。中尉、曹長、伍長の組み合わせは、彼らだけが出撃したとされる所以である。けれども、それらの公式な記録はやはり残っていない。