(東中尉)

(奥田曹長)

 

 

(黒岩伍長)

 

 七月一日。いったいどのような経緯があったのだろう。出陣式まで行い、出撃が取り止めになることは極めて異例ではないだろうか。他の事例では、機体の不良が理由でとりあえず中止になったということは耳にしたことがある。

 長兄は、「二百六十七隊でも先に三人が出撃したが、後続の三人がいずれも所帯を持っており、出撃させるに忍びないということから中止になった」という。一人一人が写る遺された写真の人物なのだろうか。けれども、三人であれ二百六十七隊が出撃したという記録は私が調べた範囲では見あたらないし、「所帯を持っているから」という理由は当時の戦況からして当てはまるものではなく、現地判断できるものでもないと思う。もとより彼らには覚悟があった。複合的な理由として考えられるのは、「加えて彼らが操縦の熟練搭乗員であって」、今少しその力を温存しておくということだろうか。陸海とも特攻隊員の多くは、十分な練習を積むことなく飛び立った、父より更に若い飛行兵たちであった。

 七月一日、直前の出撃中止の推移は結局は詳らかではない。記録に残る通り、第二百五十五神鷲隊の出撃が八月九日ならば、七月一日の第二百六十七隊とは一定期間その間隔が空いている。そこにも何らかの意味を感じ取ることができる。八月六日広島、九日長崎への原爆投下があり、いよいよ絶体絶命の窮地に陥っての九日、十三日の出撃ではなかったか。それでもやはり、出撃中止には何らかの意志がはたらいたものと私は考えてしまう。しかし、父自身も、その事情を果たして知らされていたかどうか。いずれにせよ、もう少しでも戦争が長引けば、依然として神鷲特攻隊出撃は続いたであろうし、やがては再び出撃の番があったに違いない。父は、胸中どんな思いでいたのだろう。恬淡というには語弊があるが、他の多くの搭乗者たち同様に、全てを当たり前のこととして受け入れていたようにも思える。また、その意識こそが、ぎりぎりの状態にある彼ら自身を支えるものとなっていたのではないか。父は二十九歳であったが、そんな気がする。

 七月十七日、鉾田教導飛行師団付となり、父は終戦を迎えた。