【 父・終戦まで 】

(下館校 幹部及び学生)

 

 前掲の軍歴にもあるが、昭和十六年一月十日に宇都宮陸軍飛行学校に出向を命じられた父は、大陸を離れ海路本土に渡った。同年二月一日、宇都宮陸軍飛行学校教育隊付けとなり、以降鉾田陸軍飛行学校、下館教育隊、熊谷陸軍飛行学校などと場所を変えるも飛行学校の学生操縦教育助教として、あるいは操縦者錬成教育の区隊長として任務を遂行してゆく。おそらく自身が飛行兵であった頃の上官の姿に、自己を重ね合わせることもあったことと思う。

 その間の詳しい経緯はわからないが、昭和十七年十二月に下館(現、茨城県筑西市)に赴任した頃に、商家の娘であった母と出会ったと思われる。翌年の四月八日には入籍しているから出会いから挙式までの期間は短いものの、それは戦時中の世相を反映してのことであったのかもしれない。いつだったか、母から聞いたか兄からの又聞きだったのか、母の実家の上空で翼を振る父の機の姿が幾度かあったという。時節柄ややもすれば不謹慎の誹りを受けそうな行為であるが、何とも微笑ましくもある。そして結婚後は度々のように、教え子たちを家に招いて飲食させたようである。ちなみに、父は酒を嗜まなかった。

 その教え子だが、写真がある。少年飛行兵七期生、十期生、第二期陸軍特別幹部候補生、第九十一期下士官学生などど書き添えてあるから、写真に写る彼らが父の教え子であったのだろう。戦況から鑑みても、彼らのその後を推し量ることができる。現に、特攻隊員として戦地に赴いた者もいたと聞く。陸軍特別幹部候補生は「特幹」とも言われ、昭和十八年少飛十四期から制定された陸軍の短期現役下士官養成の制度であり、少飛の乙種制度にあたる。翌年の少飛十八期からは廃止されもとの形になっている。

  少飛、つまり少年飛行兵の制度そのものは、昭和十五年に正式に制定され、さかのぼって昭和九年所沢陸軍飛行学校入校生を一期としている。その時は、操縦と整備併せて二百五十名採用が、正式制定となった昭和十五以降は、千数百名からやが年て数千名とその数を膨らませている。しかもそれが、年に二度の募集となっており、終戦間際の昭和二十年八月の二十期を最後とした。十一年半で、その数は四万五千二百六十五人に上ったという。